委員会記録・調査報告等

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文教厚生委員会記録
 
平成30年 第 3定例会閉会中

1
 



開会の日時

年月日平成30年4月26日 曜日
開会午前 10 時 0
散会午後 3 時 12

場所


第2委員会室


議題


1 参考人からの意見聴取について(陳情第16号について及び陳情第34号について)


出席委員

委 員 長  狩 俣 信 子 さん
副委員長  西 銘 純 恵 さん
委  員  新 垣   新 君
委  員  照 屋 守 之 君
委  員  次呂久 成 崇 君
委  員  亀 濱 玲 子 さん
委  員  比 嘉 京 子 さん
委  員  平 良 昭 一 君
委  員  金 城 泰 邦 君


欠席委員

末 松 文 信 君


説明のため出席した者の職・氏名

(参考人)(陳情第16号について)
NPO法人沖縄自立生活センター・イルカ代表 長 位 鈴 子 さん
(補助者)                 仲 村   晃 君
(補助者)                 仲 村 美 和 さん
(補助者)                 早 坂 佳 之 君
(参考人)(陳情第34号について)
非特定営利活動法人珊瑚舎スコーレ理事長   星 野 人 史 君
(補助者)                 野 原 京 子 さん
(補助者)                 新 里 好 子 さん
(補助者)                 牧 野 順 子 さん



○狩俣信子委員長 ただいまから、文教厚生委員会を開会いたします。
 陳情第16号外1件に係る参考人からの意見聴取についてを議題といたします。
 なお、ただいまの議題につきましては、去る3月22日に開催された本委員会での決定に基づき、陳情第16号及び陳情第34号の審査の参考とするため、陳情者をそれぞれ参考人として招致し、説明を求めるものであります。
 本日の参考人として、陳情第16号については、陳情者であるNPO法人沖縄県自立生活センター・イルカ代表長位鈴子氏、陳情第34号については、陳情者である特定非営利活動法人珊瑚舎スコーレ理事長星野人史氏の出席をお願いしております。
 まず初めに、陳情第34号夜間中学校に対する支援事業継続に関する陳情に係る参考人からの意見聴取を行います。
 お手元にあります事務局配付の資料をごらんください。
 星野人史参考人から、野原京子氏、新里好子氏、牧野順子氏を補助者として出席させ、必要に応じて発言させたいとの申し出がありますので、委員長として許可したことを御報告いたします。
 参考人及び補助者の皆様、本日は御多忙のところ御出席いただきましてまことにありがとうございます。
 参考人等から説明を求める前に、委員会の審査の進め方について御説明申し上げます。
 まず、参考人等から御説明をいただいた後、委員から参考人に対し質疑を行うことにしております。
 なお、参考人等が発言しようとするときは、あらかじめ委員長の許可を得なければならず、発言は、陳情の趣旨の範囲内で行うこととなっております。
 また、本日は委員会が参考人等の説明を聞く場でありますので、参考人等が委員に対して質疑することはできませんので、御承知おきください。
 それでは、陳情第34号について、星野人史参考人から、提出に至る背景及び目的等について簡潔に御説明をお願いいたします。
 星野人史参考人。

○星野人史参考人 今回の陳情について御説明いたします。これまでは珊瑚舎スコーレ夜間中学校に対する行政からの補助があったわけですが、それが打ち切られるということは、以前から伝えられていたので承知していました。これは戦後補償のための補助でした。珊瑚舎スコーレはそのことについて、義務教育未修了者の問題というものは政治的な課題であることはもちろんですが、それ以前に教育の問題として捉えてほしい。だから、義務教育未修了者に年齢の枠を設けた補助―昭和7年から昭和16年生まれの方に限って支援するという形で支援が行われていて、その支援が打ち切られるということは3年前から伝えられて知っていることだったのです。しかし、その間、年齢の枠を外してほしい、年齢の枠を設けることはおかしいので、それを外して支援をしてほしいということで訴えていました。
 ところが、去る3月の新聞報道で支援がないということ、支援の継続、形を変えた支援がないということを知ったわけです。私は少しのんびりしていたと反省しています。それは、ずっと教育委員会の方にはお伝えしていました。珊瑚舎スコーレは支援が打ち切られても、義務教育未修了者が在籍しているので、その後どうしていくのですか。当然、学びたい人がいらっしゃれば、夜間中学校は続けていきますと、ずっと答えていました。その間、マスコミの取材に教育委員会の方が答えていて、戦後枠、10年枠がない支援の形を、何らかの形で継続するということをおっしゃっていました。インタビューに対して答えているという状況があったものですから、支援を打ち切るということは、沖縄県が行ってきた、全国でも本当に誇れるような義務教育未修了者に対する施策を後退させることになると思うのです。私自身は、何らかの形での補助があるだろうと思っていました。ここに補助者としていらっしゃる方は、この10年の枠の中に入っていらっしゃる方です。その方々がまだ在籍しているのに支援を打ち切ってしまう。教育委員会は立派な仕事をしてきたのに、なぜそれをやめて後退させてしまうのかという気持ちがすごく沸き上がってきました。それはないでしょうと。せっかく、全国的にも唯一の夜間中学校と言われていて評価が高い、そういうものをほごにしてしまうのですか。一定の成果があったから、これから別の形を考えると言いますが、行政は人に寄り添って初めて行政となるのです。それを、その制度の枠をつくって、生身の人を排除したらだめなのです。そうでない形をぜひつくっていただきたい。これまでやってきたことが、もったいないです。これは教育委員会の先輩方が一生懸命努力してやってきたことです。珊瑚舎スコーレと協働してやっているわけです。それを今後も続けていきましょうという訴えです。これを後退させてはいけない。これは珊瑚舎スコーレのためにやるのではない。沖縄県のためになると考えています。だから、ぜひとも具体的に、早急な対応―制度は常に人に寄り添うという発想でやっていただきたい。これは本当に後退させたらいけません。今、全国から署名がたくさん来ています。10日間で1500名くらいの方が署名してきています。そういう状況があることを忘れてはいけません。
 お配りしている資料に、現在のことが書かれています。今、夜間中学校に12名の方が在籍しています。このうち義務教育未修了の方が9名、学び直しの方が3名―中学校は卒業していますが、もう一度学びたいという方がいらっしゃいます。それから1年生は3名、2年生は3名ですが、現在人数が少ないので、1年生と2年生は合同で授業をしています。したがって、現在2クラスで授業している状況になっています。
 このような方々に対して、おととし12月に、いわゆる教育機会確保法という法律ができました。それは、年齢の枠や国籍に関係なく、とにかく学ぶ権利を認めなければならないという法律です。その法律がおととしの12月にできているのに支援を打ち切ってしまうということは、大変申しわけないですが少しまずいのではないかと。これを放置するのはまずいことではないですか。この法律の趣旨にも反している。これだけ学びたいという方がいらっしゃるわけです。例えば、2年生に47歳の方がいらっしゃいます。この方はアフガニスタンの方です。これまで学校は出ていません。教育機会確保法は、そういう外国の方の学習権も保障する―それは文化国家の最前線ですね。こういうことをやるということ、しかもそれを沖縄県がやっているということを私は誇りに思っています。ですから、ぜひこれを継続して、途切れることなくその学習権を保障するということを行ってほしいのです。それから、時間がないのでここで読み上げることはできませんが、資料Ⅱに生徒の声が書いてあります。まず義務教育未修了の方、それから2人目が学び直しの方。一遍、学校に入ったが、実質的には勉強ができなかったので、もう一度学び直しをしたいという人の気持ちが書かれています。3人目は外国籍を持つ方のお気持ち。珊瑚舎スコーレの夜間中学校で学んでいることについて、どのような気持ちでいるかということが書いてある。お忙しいと思いますが、ぜひ目を通していただきたい。
 具体的にどのように夜間中学校が展開しているのかわかるように、資料として時間割を配付しています。これは3年間で指導要領に記載されている科目を全て網羅して、全てを学ぶというカリキュラムにしています。珊瑚舎スコーレのような民間の夜間中学のことを自主夜間中学校というのですが、自主夜間中学校として、こういう形で3年間やっているところは、全国で珊瑚舎スコーレだけです。そのこともぜひ知っていただきたい。
 それから、日程表を配付してあります。民間の自主夜間中学校というものは、週に2回か、あるいは1回。これは識字教育が主なのです。ところが珊瑚舎スコーレは全部の勉強をしている。なおかつ勉強だけではなく、いろいろな学校行事も実施しているのです。そういう学校で体験することが大事なのです。勉強もすごく大事ですが、全てが勉強というわけではないのです。珊瑚舎スコーレには、昼間も生徒がいるわけですが、お昼の若い孫のような生徒と一緒に入学を祝う会を行う。あしたは、夜間中学校の方々も、若い生徒たちと一緒に遠足に行きます。修学旅行や学習発表会もあります。このような学校の教育というよりも、学校がつくる一つの文化―学校文化というものを体験することが、人間の成長につながっていく。私より先輩の方々を目の前にして言うのは申しわけない気もいたしますが、幾つになっても人間は成長するのです。
 きょう、ここにいらっしゃらない卒業した生徒が、3年生在籍時の今ごろの時期に、詩を書くという授業があって―入学したとき、ひらがながやっと書けるような人です。その人が詩を書くということはすごくハードルが高いのです。その人は悪戦苦闘したと思いますが、廊下で「先生、こんなんでええかね。」と私に見せてくれた詩があるのです。そのときに私は、本当に人間はすごい、成長する、教育ってすごいと思いました。年齢は関係ないです。これは、「勇気とは」という詩です。私が今まで何もできないと言ってきたが、新しい自分をつくるためには、勇気を出して一歩進むと書いてあるのです。この人は78歳です。その人が、新しい自分をつくるというのです。学ぶ力はここにあります。これは象徴的なことです。これが、すごくいい雰囲気をつくっています。もう一つ印象的なことがありました。「先生、私は孫が行っている学校には、よう行ききれんよ」と。私が何でと聞いたら、「孫を見ていると、孫が通っている学校は競い合っているさ。」と言うわけです。「私のように、ひらがながやっとのような人間がそこに行ったら、恥ずかしくて、恥ずかしい気持ちがいっぱいで学校に行きたくなくなるさ。」と言うのです。「珊瑚舎スコーレは競い合ってないよ。支え合ってるよ。支え合っているから私のような、できん者でも、毎日嬉しくて行くわけさ。勉強がこんなに嬉しいのよ。だから毎日行けるさ。」と言っている。ここにも、これからの教育を考える鍵がある。ぜひ、この珊瑚舎スコーレが取り組み始めたこと、これは全国の方々から応援されています。このやり始めたことを、1つの夜間中学校を継続するということではなくて、日本の学校教育は閉塞状況に陥っていますから。その閉塞状況に陥っている学校へ沖縄から、この夜間中学校から全国に示していきたい。
 本日、参考資料として実践報告書を持ってきています。その実践報告書に、この夜間中学校がやってきたことの積み重ねが7年分あります。その7年分でどういうことをやってきたのかということを見ていただきたい。これは珊瑚舎スコーレのために言っているのではないです。日本の学校教育、沖縄県の学校教育、人間のための学校教育、そのためにやらなくてはいけないことがあると思って取り組んでいますので、ぜひ委員の皆様方の御理解をいただいて、支援の輪を継続できるようにしていただきたいと考えております。

○狩俣信子委員長 参考人の説明は終わりました。
 これより陳情第34号に対する質疑を行います。
 なお、質疑・答弁に当たっては、挙手により委員長の許可を得てから行い、重複することがないよう簡潔にお願いいたします。
 質疑はありませんか。
 新垣新委員。

○新垣新委員 珊瑚舎スコーレと関係各位の皆様に対して、大変感謝申し上げます。
 2月定例会で、県教育委員会、県教育長を呼んで審査しました。箱物よりも人に―そして道徳心として、こういった社会貢献、戦前・戦中・戦後に学問ができなかった皆様に、しっかりとした学問の場を提供することは当然のことだと。しかし、去る3月に教育長に聞いたら、もうこの戦前・戦後の方々はいなくなってきていると言ったのです。いや、そうではないと。これまで不登校だった、いじめに遭った方々が来る時代だから、検討委員会―公立中学校夜間学級等設置検討委員会に投げて―簡単に言うと、私は、珊瑚舎スコーレに対する支援を打ち切るためにやっているのでしょうと。そういう県教育委員会の冷たさに対して、この問題について強く抗議しております。沖縄県民もはっきり言って、全面的にこれを残すべきだと思っています。そういった世論の声が喚起されている中で伺います。夜間中学校に対する支援を継続するという件で、県教育長と県教育委員会に対して、どのように向き合ってきましたか。県の言い分は聞きました。当事者のお話もお聞きしたいと思います。

○星野人史参考人 毎年度の終わりごろに、県教育委員会の方とお話しする機会があって、珊瑚舎スコーレは学びたい人がいる限りはやります。これは人数の問題ではないと言っています。その人が学びたいのであれば、その人のために必ず準備しようと思っています。できる限りの努力をする。気づいた者に対して、それをできるようにするということが私の信条ですから。できないことはできないけれど、今までできることを探してきて、どうしたらできるのかとやってきた。そのような話を聞いたとき、私はいつでも違和感を感じます。これは、本来は行政の仕事ではないかと。学びたい方がいたらどうするのですかということは、本来は県教育委員会自身に対する問いでしょう。なぜ珊瑚舎スコーレに聞くのですか。珊瑚舎スコーレは来れば受け入れます。これは常に思っていること。だから、そういった方々がいるのですよと常に言っている。行政はそれを受けて、それをどうしてやるかというのが自分たちの仕事でしょうという気持ちが常にあります。私は説教じみたことは言いたくありません。珊瑚舎スコーレはこうしますと言っているだけです。その状況を捉えて、私からあなた方はどうするのですかということを常に言っています。今回、それが打ち切りになったものだから、少し待ってくれと。以前に少しお話ししたときには、打ち切りについては前から言っていますと。それは私も知っています。でも、そういう方々はいるのです。それは珊瑚舎スコーレがどうするのですかということではなくて、行政がどうするかという問題だと思っています。だから、その問いかけは県教育委員会自身に向けてほしいと思っています。珊瑚舎スコーレがどうするのかではないのです。珊瑚舎スコーレは、自身でやります。県教育委員会には協働も申し込んでいます。一緒にやりましょうと。だから、それに対する答えが、このようなものであったということが残念です。

○新垣新委員 私もいろいろと調べてきて、中学校を出ていない方々が、まだまだたくさんいるという数値もありました。戦前・戦中・戦後にかかわらず、学びたいという日本人、ウチナーンチュがたくさんいます。これは社会貢献です。人間としての道徳心、社会に対する、そして日本人らしさという、学問というものを、世界にもまれな、このすばらしいものを残すべきだと思っています。
 もう一点伺います。今、恥ずかしながら、県はずさんな対応をしています。県議会では、県民に寄り添うと口先だけで言っていて、検討委員会の議論の流れを見たいという県教育委員会の逃げの対応について、どのように思いますか。

○星野人史参考人 それは残念ですね。委員の皆様がどう捉えるかわかりませんが、今、県は県知事を初めとして、ヤマトに対しては民主主義を問い続けています。そのあり方を、こうだと。私はそのお膝元でこういうことが起こるということは大変残念に思っています。これは大きな後退ですね。制度というものは、とにかく人に寄り添うということを考えなくてはいけないのです。県に対してそれをずっと言っている、そういう状況がある。そのときに、お膝元の県教育委員会で、学ぶ権利を保障しないような動きをつくってしまうということ、これは大変残念なことだと思っています。ぜひ考え直していただきたいというのが正直な気持ちです。

○新垣新委員 まず、翁長知事に直談判―私は検討委員会に投げて、この夜間中学校を廃止するという県教育委員会のあり方に大きな不満を持っています。これは心の道徳、社会貢献というものに、人と人が触れ合う、支え合う、友達もできるといった苦しみも悲しみもわからない県教育委員会ですから。これは翁長知事に、今、知事は体調不良ですから、早期に副知事に直談判するのはいかがですか。
 2点目に、沖縄市長選挙の選挙の争点を見ました。箱物から人へといったオール沖縄の体制ですね。今、MICEというものは、沖縄市のアリーナでやればいいのではないかと思っています。MICE的な機能をですね。金をかけず人に投資すると。その問題においても、やはりわずか500万円以内の予算ですから、そういった問題についてどう思いますか。この2点について伺います。

○星野人史参考人 学習権の保障ということは一番基本的な問題です。そこに―県政のいろいろな力関係があって、そのやりとりがありましょうが、そのことを無視して、度外視しても必要なことだと思います。どちらにしてもやらなくてはいけないこと。学習権の保障は民主主義の本質だと思っています。そのことについては、必ず具体的な施策としてやってほしい。
 私からの質疑ではなくて、あくまでも意見ですが、県教育委員会は、公立の夜間中学校の設置を考えているということでした。それはすごく大事なことで、やらなくてはいけないことです。それに対して、珊瑚舎スコーレは2004年からやっています。それだけの積み重ねがあります。その途中から県教育委員会も一緒にやり始めているわけです。だから、その歴史を忘れてはいけないと思っています。これは一緒にやらなくてはいけない。箱物がいいとは全然思っていません。その中身です。珊瑚舎スコーレに来ていただければわかると思いますが、古いビルの3階でやっています。決して立派な施設ではありません。その中でも教育はできていると自負しています。そういう経験を踏まえて、ぜひ一緒に、民間として協働でやりたい。公立の夜間中学校をつくるとなれば、莫大な予算がかかると思います。特に離島を抱えた沖縄県です。そのときに、珊瑚舎スコーレがやってきた形というものが大変役に立つはずです。教育機会確保法ができた後、他府県の設置委員会の方々から珊瑚舎スコーレに連絡がきます。どういうことをやっていたのですかと、アドバイスしてほしいと。県の委員も、委員の任期が切れた後ですが珊瑚舎スコーレに来ました。どういう形がいいのか。珊瑚舎スコーレがやっていることで、参考になることを教えてほしいと聞きに来ています。だから、どんな状況があるのか―これは政治的な状況で、いろいろなことがあると思いますが、そういうことにかかわりなく、教育が独自の価値として、基本的なことを保障しているのだと。これは県政がどういう形になるにしても必要なことです。これが、今まではできていたと思っています。だからぜひ、そういう綱引きの中に学校を巻き込まずにきちんとやってほしいというのが正直な気持ちです。学習権の保障はそういうこととしてあると思っています。
 一つの段階としては、県教育委員会に対してはきちんとすべきであると思っています。県教育委員会は独立した機関ですから、そこのところできちんとしてもらいたい。県知事等への要請はその上での話だと思います。

○新垣新委員 県教育委員会は正直に言って、県民に寄り添っていません。ですから、らちがあかないから政治力を使うと。そういう形で検討委員会に丸投げしているのです。結論から言えば、支援を廃止したいのです。だからそういった検討委員会をつくるのです。我々、県議会議員から逃げ道をつくるという形です。ですから、県知事や担当副知事に直談判すべきだという提案を行っています。再度伺います。これは追及ではありません。

○星野人史参考人 それも一つの方法として―今すぐお答えできませんので、考えさせていただきます。よろしくお願いします。

○新垣新委員 お話を聞いて、もう一点大事なことを伺います。実は、1970年代生まれの40代、30代、20代で―中学校に行けない不登校の子がまだまだいます。そういった子供たちが、行きたいけど、なかなか行けないという、この珊瑚舎スコーレに対して行きたいというニーズがあります。そういった子供たちをまだまだ受け入れるという温かさはありますか。

○星野人史参考人 学びたい人に対しては、常に門戸を開いています。だから、珊瑚舎スコーレとしての考え方で、一つのやり方を常にできる限りやろうと思っています。これは不登校とは関係なしに、いろいろな生徒が来ていますから。不登校だけではないのです。中には不登校の子もいますが。それから、県立高校、普通科の高校に合格したが珊瑚舎スコーレに来ると。合格したものの、珊瑚舎スコーレに来ている子もいます。そうなると、わけありの学校だろうというような見方がありますが―しばらくは仕方がないのですが、そのことを払拭するように、沖縄県から新しい教育の風を吹かせたいというのが率直な気持ちです。ぜひ皆様の御協力をいただければ、ありがたいと思っています。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 照屋守之委員。

○照屋守之委員 県議会議員になって、この珊瑚舎スコーレの支援が始まって、これはいいことだということで評価をしていましたが、現在それが打ち切られているということで、非常に苦慮しております。
 珊瑚舎スコーレをつくった背景などについて、少し御説明をお願いします。

○星野人史参考人 私はヤマトで高校の校長をしておりました。その高校は生徒数が1300人くらいいる大きな高校でした。そこもすごく面白いところでしたが、もっと小さい学校が必要だとすごく感じていました。本当に小さな学校をつくりたいと思いました。そのときに、どこにつくるか。そこで沖縄を選ばせてもらいました。沖縄を選んだことについて、今ここで話すと大変長くなると思いますが、それははしょって、とにかく沖縄でつくろうと思いました。その理由を簡潔に言うと、沖縄には力があるからです。沖縄という地域には力がある。その力を―すごく僭越な言い方ですが、沖縄の方は気づいているのかなと感じていました。沖縄県で、沖縄の方々と一緒に、ぜひ新しい学び場をつくりたいということで、1997年にこちらに来ました。4年間準備しました。私は沖縄に友達や知人もいませんでしたから、ゼロからというかマイナスからのスタートでした。とにかく、いろいろな方にお会いして、よろしく願いします、こういうことをやりたいと。何人かの方が相手にしてくれました。その方々からいろいろな形が広がって、現在こういうことができているのです。それで、このような訴えも、県議会の場でできているとういう状況がつくれているということは、私自身にとっては大変ありがたいことです。ぜひ、この夜間中学校でつくった芽を閉ざさずに続けていきたい。
 これは、珊瑚舎スコーレだけのことではなくて、沖縄―もっと大げさに言うと、日本の学校教育の可能性を示しているのです。常にそう思っています。なおかつ、おととしの12月に教育機会確保法という法律ができている。その中で、いわゆるフリースクールや夜間中学校の存在を認めている。珊瑚舎スコーレはフリースクールでもあるし、夜間中学校でもあるという、全国でも唯一の学び場です。沖縄県の方がこれをやっていると、これに対する評価がどれほど大きいのかということをについて、本当に気づいてほしいのですが、こういうことをやっている民間教育団体は日本にありません。珊瑚舎スコーレだけです。だから、ぜひ沖縄県の方々と一緒にこの生まれた小さな芽を大きくしていきたい、その芽を摘んでしまうようなことがあってはならないというのが今の率直な気持ちです。なぜ沖縄県で珊瑚舎スコーレを立ち上げたのかということについては、力をかりたいと思ったということが、一番簡単な言い方になるのではないかと思っています。

○照屋守之委員 御説明の中で、沖縄には力があるという表現ですが、当然、これは沖縄の歴史的な―戦争であったり、米軍に支配されたりとかという歴史的な背景も含めてのことですか。

○星野人史参考人 当然、そうなります。また、それほど最近のことではなく、もっと以前からの問題からあります。珊瑚舎スコーレは、ミャンマーのヤンゴンに珊瑚舎ヤンゴン日本語学校というものをつくっています。日本語を勉強したい若者たちに場を提供しています。かつて琉球は東南アジアと交易することによって、世界でもまれな海洋国家として存在していた。それが、いろいろな事情があって、古琉球の時代から新しい琉球の時代になって、王様が拉致されたりしているわけです。そういう歴史がある。当然、その歴史を踏まえています。その歴史の中で、沖縄県民の方がどういう感性を養ってきたのか。そこがすごくポイントです。そのことが沖縄の力だと思っています。長い歴史の中にある沖縄の力、ここがすごく大事なことだと思っています。

○照屋守之委員 我々県民は沖縄に住んでいて、自分の目先のことばかりで、対応できないところを、今、改めてそういう指摘をされて、星野参考人が御苦労されて、こういうものをつくってきたということを伺うと、改めて我々県議会議員として、県民としてどうなのだろうという思いでおります。
 この沖縄がいい、沖縄には力がある、さまざまな背景があったということと、実際にこういうことをやる―経営や利害関係だけで考えるわけではありませんが、夜間中学校の運営としてはかなり苦労する。そうまでしてでも、そういうものを立ち上げて、これまでつくってくるという、そこが非常に私は―思いはあったとしても、形としてこれだけ継続していけるのは、ビジネスでもないし、それはすごいことだという思いがあります。この星野参考人を駆り立てる―数字的には非常に厳しいながらも、これをつくり続けているという、そこはどういうことがあるのですか。

○星野人史参考人 やはり、人は生まれてきた自分を自分自身で育てる力がありますから、私は私自身を育てなくてはいけない。同時に、私と一緒に育つ人もいなければならない。これは人間の原点です。それは、自分ができることをやればいいだけの話です。何も学校をつくらなくてもいいのです。自分ができる中で、自分を育て、自分とかかわりのある誰かと一緒に育っていく。これが原点です。
 私の場合は学校をつくる、学校という学び場をつくることによって、自分という人間がそこに集う人たちとともに育っていく。育っていくということは、何かといえば、珊瑚舎スコーレの場合は自由であること。それから自立を手に入れること。平和を大事にすること。この3つが育つということです。
 中でも、自由を手に入れること。自由というものは、今の自分と違う自分を手に入れることです。先ほど紹介した夜間中学校のおばあさんの詩は、新しい自分をつくるのだと。「いいさ、自分は」と、決して自分を安売りしていません。新しい自分をつくりたいと。78歳になってもそう言う。これが自由です。今の自分からもっとすばらしい自分になるために、学ばなくては、それができません。
 それから自立するということ。自立とは、とことん人のお世話にならないと人間は生きていけないのだと感じることが自立です。自分でお金を稼いでいるとか、親の世話になっていないということも自立ですが、自立というものを考えていけば「人間って、人の世話にならないと生きていけないね」と、これをきちんと感じられる力。それが自立です。
 平和は、たまたま隣になった人とうまくやっていくことです。
 珊瑚舎スコーレとして、学校生活は、常にそういう文化的な価値を育んでいくような場でないと、学び場は死んでしまうと思っています。そういう発想でやっていかないと学び場は死ぬ。そういう学校をつくるためには、適正な規模があるということで、やはり小さな学校になるわけです。それではどこにつくるか。そうであれば沖縄という場の力をかりようと。私がそう考えたときには、ウチナーンチュのことを知らなかった。でも沖縄については知っていました。高校時代から沖縄に関するいろいろな本を読んで、勉強というか興味があってやっておりました。だから沖縄というところが、日本の一つの地域としてあるということは、とてもラッキーだと高校生のころから思っていました。そういうことで沖縄に来たのです。そういう場として捉えている。自分が生きるためにやっていることで、金勘定は2番目に大事なことです。金勘定を無視するやり方については、私はとてもついていけませんが、1番目にするやり方も余り好きではありません。これは2番目に大事だということを常に考えながら、それでは何ができるのだということでやっている。そうすると、ありがたいことに寄附してくれる方がいらっしゃったりする。あるいは夜間中学校に対する、そういうことをやろうという考えを持つ方が出てきてくれたりする。そういう同行者を得るということが、とても大事なことだと思っています。同行者がいなければできません。珊瑚舎スコーレは同行者がいるからできている。自分ができることを一生懸命やる姿に対して、同行者があらわれてくるのだろうと考えています。

○照屋守之委員 今ある夜間中学校は、本来は行政がやるべきことを珊瑚舎スコーレがやっている。それに対して支援をすることは、ごく当たり前のことです。行政がその仕組みをつくろうとしたら、いろいろな制約の中で、コスト的にも数十倍のお金がかかるということと、もともとそういうことやろうという、県教育委員会も教育行政としてそういう意識がない中で、珊瑚舎スコーレがそういう役割を果たしてきています。そこは、当たり前に継続する必要があるのだろうと思っています。
 今の珊瑚舎スコーレができ上がってきた背景などのお話を伺うと、新たな法律ができても、むしろ既存のものを積極的に行政や県民がバックアップして、そこをもっともっと盛り上げていくということが、今求められているのだろうと思っています。
 それで、先ほど夜間中学校で学んだ方、学び直しとか、あるいは外国籍の方々の体験もつづられておりますが、これを少し具体的に説明していただけませんか。この声は資料に記されておりますが、実際に夜間中学校で学んでみて、どのような感じなのか、お伺いできればと思います。

○新里好子補助者 こういう公の場に出るのは初めてです。それで、県議会議員の方のお言葉も、耳が遠くなりつつあります。
 イクサユーヌウワティ、これからだというときに、こういう学校があるということは、私のためだけではなくて、子や孫たちのためだとも思っております。それで、子や孫たちが、トゥスイヌ、ヌーガワカイガではなくて、年寄りなのにそんなこともわかっているのだねと思われたいです。それで、今からこんな偉い議員先生方の前でこんな発言をするのも、本当は私なりに大変なことです。今、がたがた震えております。そうですけれども、このイクサユーヌウワティ、今からというときに、こういう学校がなくなるということは、とても大変なことだと思います。10歳のころに「もう勉強はせんでもいい、早くお金をもうけよう。お金でこの弟たちや妹たちをどうにかしよう」という時代の、私たちですので、それで、ああもう今からだね私たち、今から学ぶべきだねと、最近からそう思いまして、80歳も過ぎてから、この学校に申し込んで、お願いできるということで私はとても嬉しくて、それで入学いたしました。
 それでも、どうにかなるだろう、子供たちは、私はこれまで何も勉強もしていないので、今から勉強というのに、どうしてこういうことがあるのだろうなと、夜も寝る前には必ず考えて寝ております。これからもよろしくお願いします。いいように進むようにお願いいたします。

○牧野順子補助者 私は砂川小学校の2年生まで歩きました。それから、どこで本を失ったのかわからなくて―真和志小学校に転校したのだけれども、本を失って、今みたいに本があの時代はないですね。だから、学校に行ってもみんなは勉強を一生懸命やっているのに、私は何もすることがなくて、学校の裏に出て遊んでいたのです。親は学校に行っているものだと思っているし、学校の時間中は、外でうろうろ遊んで、みんなが帰る時間になったら家に帰って「学校に行ってきたのか」と言われたら「うん」と言って過ごしました。
 この珊瑚舎スコーレがあるというのを妹から聞いて、どういう学校かね、行ってみようと。妹に聞いて、字を書けないけど入れるかなと聞いて、入れるよと言うので、ちょっと歩きましたけれど、その時分は仕事をしていたので半年くらいでやめました。農連市場で仕事をやっていましたから、眠たさに負けて学校はお休みしたのです。去年、足を悪くして入院して、仕事もやめたので、これから何をしようかと思って、夜中起きてうろうろしていたら「お母さん、学校に行ったらいいんじゃない」と言われ、そうだね、学校に行ってみようかと思って聞いてみたら、星野先生が「歓迎だよ、来なさい」と言ってくれました。それで、前はすっすっと上がれていた階段が、今は上がれないのです。でも子供たちは一応行きなさいと言って、私が「雨が降っているから、どうしようかな」と言うと「お母さん、雨が降っているからといって学校は休みじゃないよ」と言って、学校まで送ってくれます。それで学ぶことにしたので、どうぞよろしくお願いします。

○照屋守之委員 先ほど資料にありましたように、このカリキュラムとか、そういうものも含めて、何十年前の青春というか。そういうものを取り戻したような感じがしますか。どうですか。

○新里好子補助者 イクサユーヌウワティ、ということで安心したころですので、それで今からでもと思いまして、このように頑張っております。こんなに自由で遠慮のいらない学校があるということが、本当に私たちのためでもありますし、子や孫のためでもあると思います。「おばあちゃんは、とっても明るくなったね」とよく言われます。階段のことでも、初めはすっすと上がったのですよ。今は私のためにこの階段はかけておいてくださっているのかと思ったり、いいように考えて、今階段を上がっております。

○照屋守之委員 この珊瑚舎スコーレが存在することで、その当時、本来は学ぶべき、あるいはいろいろな体験ができたということが、何十年も後にこういう形で学んで、それが家族や社会に対しても非常にいい影響を与えていくと思うのです。だから、それを我々県議会議員が県民の代表としてどう捉えて考えていくのか。また県の行政としてどう考えていくかということであろうかと思います。
 外国籍の方々が学んでいるというもの―その外国籍というのも少し具体的に説明をお願いできますか。

○星野人史参考人 今までに国籍で言うと―きちんとした数は、今、資料がなくてはっきりとしたことは言えないのですが、中国―台湾も一つの地域として数えると台湾もそうですが、タイ、ミャンマー、ベトナム、インドネシア。今はアフガニスタンの方がいます。そういう方々は、日本語が覚えたくて、珊瑚舎スコーレに来ています。日本語学校は、ある程度日本語ができないと入学を断られてしまうのです。全く日本語ができないのはだめだと。それでは、どこかないだろうかといって探して来るのが珊瑚舎スコーレです。それで、皆さんは日本語を覚えるために通学していますから、この授業だけと言いますが、それはお断りしています。珊瑚舎スコーレは日本語学校ではありません。学校を体験してもらうためにあるのです。それを日本語でやっていると。そのつもりで入学すれば日本語も覚えられると言っています。ミャンマーから来た―ウチナーンチュと結婚した女性の方は義務教育未修了です。ミャンマーでも学校には行っていなかった。ところが、参観授業で自分の娘が学校に通っているのを見て、本当にうらやましくて仕方がなかった。私も娘と一緒にあの経験がしたいと言って、入学してくれました。この方は転勤で離れてしまいましたが、そういう学校が転勤先にもあるのかと不安がっていました。
 それから、実際にはやめていく方も多いです。また、卒業するまでに、合計で6年から7年かかった方がいます。この方は中国人です。この方は、本当に、最後はきちんとした日本語や漢字も書けて―もともと漢字は書けると思いますが、その方は中国ではかなり貧しい生活をしていた人です。そのような方が卒業して、今沖縄で大成功しています。沖縄の空がこんなに美しいから、北京には帰りたくない、この空の下で生きていきたいと言って、みんな沖縄に呼び寄せています。中国人は呼び寄せる早さがすごいですね。いろいろな方が来ていて、1つのかなり大きなファミリーで来ていて、時々、夜間中学校にも遊びに来てくれます。
 ある程度、夜間中学校に通って、3年間で卒業までたどり着ける人は少ないです。ですから、そういう方専門のクラスをつくったほうがいいのかなという気持ちもあります。これからは、そのような方がどんどんふえるはずです。だから、そういう人に対しても温かな場所でなければいけないと思っています。今の珊瑚舎スコーレの形だと、外国籍で日本語が片言、字は全く読めないという方に対するカリキュラムの内容にはなっていませんから、そこら辺が検討課題になっていて、大変つらいところです。そのため入学をお断りすることがある。今いるパキスタンの方は、娘さんが日本の高校に行っていて、しっかりとした日本語をきちんとしゃべる方で、日本の学校に通うことがどれだけ大切かということをお母さんやおばさんに言っているのです。それで兄弟で、珊瑚舎スコーレに通っています。娘さんや妹さんが勧めるのと同じように、今度はそのパキスタン人の方は、娘さんがしっかりとやらなくてはいけないと言って、一生懸命通ってきてくれます。その方々は日本語だけの生活でかなり言葉を覚えていて、ひらがなと漢字を交えて日本語の文章が書けるようになっています。

○照屋守之委員 やはり、お話をお伺いしていても、我々が当たり前のように小学校、中学校、高校、大学という学べる環境がある中で、歴史的背景があって、そういうことができなくて、80歳になられてこういうことができているという―そこは我々が考えるべきことであると改めて思います。
 珊瑚舎スコーレの経営、運営そのものが、やはり行政の支援なしではできないということですから、我々は、一旦打ち切ったものをどうするか。あるいは今、新たな法律のもとに、さまざまな仕組みを全国でやっていいということがあるとなると、むしろそれを県などの行政がやるのではなく、現にある珊瑚舎スコーレがやっているものについて、もっとより手厚くバックアップしていく。さらに、多くの方々が学んでいけるという仕組みをつくることが現実的であり、これまでやってきた珊瑚舎スコーレやほかのところも含めて、それがいいのかという思いがあります。きょうは非常にいい勉強になりました。ぜひこれからも、当時には学べなかったことを、今、学ぶことによって、それが、皆様の喜び、幸せ、あるいは家族の喜びにもつながっていて、社会全体にもいい影響を与えていくのであろうと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 西銘純恵委員。

○西銘純恵委員 現在、在籍されている3名の皆さんのお話を聞かせてもらいましたが、以前にも学んでいて本当に楽しいという方の話を聞いたことがあります。珊瑚舎スコーレで勉強なさって、沖縄タイムスや琉球新報などにいろいろと投稿するようになったということを珊瑚舎スコーレを卒業した御本人から聞いたことがあります。これは、先ほど話されていた、字が書けるようになるということにつながるのかと思います。あと、珊瑚舎スコーレを卒業して高校に進学した方もいるかと思います。珊瑚舎スコーレを卒業して、さらに学習能力を高めると。そこら辺についてはどのように捉えていますか。

○星野人史参考人 これまで約九十数名の方が珊瑚舎スコーレを卒業しています。入学した方はもっと多いです。事情があって途中で終わる方もいます。そのうち4割近くの方―三十何名の方々が高校へ進学しています。その中の1人の方は、放送大学に入学して卒業しています。放送大学を修了することは結構大変なのです。
 本来、学ぶことは快楽なのです。楽しいことなのです。これを快楽ではなくて耐えなくてはいけないことという文化を植えつけてしまっている日本の学校制度そのものが、今根本的に問われていると思っています。だから、快楽であるということを発見した人たちはそのようになるわけです。学ぶこと自体が嬉しくてしようがない。学ぶということは、自分が膨らんでいくのです。押しつけられて、いつまでにこれをやりなさいと言って、そういうやり方を早く卒業しないと人間はだめになってしまう。何のために学ぶのかといったら、想像力を身につけるためです。想像力が枯渇した社会は、お金はあっても貧困化していきます。そうならないように手を打つことが必要です。珊瑚舎スコーレはそのようにしています。その方々がさらに次の段階で勉強したくなること。勉強というものは、その喜びを知るとくせになるのです。ある高齢な女性の生徒ですが、字を書き過ぎて腱鞘炎になったというのです。それほどです。鉛筆を持つ手が、指が曲がっている。「先生、曲がっちゃったさ」と。それほど勉強をやりたがるのです。人間とはそういう生き物です。そういう本来の、人間が持つすばらしさをいつでも保障できるような学校づくりをしないと、社会は本当に貧困になっていくと思っています。ですから、将来、ずっと一生学校に通いたいとか、そういう学びを保障する社会というものが、非常に豊かな社会であり、一番強い社会だと思っています。その喜びを知った人がたくさんいる社会が一番強いというか強固である。だから、人間は学ぶことを失うと、少し貧弱になってしまう。そうでない形をしっかりとしなければいけない。

○西銘純恵委員 今の学校教育に対する―結構、全国一律学力テスト対策で過去問をやっているとか、そういうことで子供たちが本当に今おっしゃった学びは快楽であるというところにいっていないという。今、学校とは、そういうものが柱なのだろうということを本当に聞かせていただきました。
 フリースクールと夜間中学校を一つにされているのは、珊瑚舎スコーレしかないと先ほどおっしゃったのですが、そのフリースクールも、そこら辺の中に入っているのでしょうか。ほかの夜間中学校―全国の夜間中学校では、公立とかいろいろありますが、珊瑚舎スコーレの場合は、フリースクールも兼ねているとおっしゃっていました。そこら辺は、戦中・戦後の皆さんと合わせて、また何らかの効果といったものはありますか。

○星野人史参考人 まず私が答えますが、隣に、長い間ボランティアで講師をなさっている野原さんがおりますので、次にぜひボランティアの話も聞いていただきたいと思います。
 もちろん、これは同じです。御高齢の方も―今、珊瑚舎スコーレで一番高齢の生徒は85歳です。一方、一番若い生徒は10歳です。その人たちが一緒に行事をつくる。廊下ですれ違って挨拶している。これもまた日本の学校教育のあり方に対して、ある状況を明示してくれているものだと思っています。学年制という考え方がありますが、私たちはこれに凝り固まっている。実はそうではないのです。ところが、そうでないという発想はなかなか生まれない。一番保守的な部分が学校教育なのです。そのところをどうやってクリアしていくのか。どうすれば、もっと学びやを快楽だと思われるような形としてつくっていくことができるのかということが、とても大事だと思います。

○野原京子補助者 先ほどの話と少しつながるのかわかりませんが、照屋委員が、牧野さんと新里さんの話を聞いていて、非常に胸を打たれておりました。珊瑚舎スコーレには90名の卒業生がいて、それぞれ90名の物語があるのです。例えば、小学校6年生の少年が、父親が戦争に行って母親が爆死して、6カ月の赤ちゃん、つまり妹を育てているところ、ごうの中から追い出され、お墓に行って、芋を溶いて赤ん坊に飲ませていたのですが、その腕の中で死んでしまった。それでも、その少年は、赤ん坊である妹が母親のもとに行ってよかったという話とか。それから、5歳の少女が2歳の弟を連れて―南洋から一家全滅する中で、2人しか生き残っていないので、船の中でみんなに助けられながら沖縄に着き、おじさんに引き取られるのです。この子は学校に行けると思ったら、戦後の混乱期の厳しい生活の中では、おじさんの子供と弟を見てほしい。だから学校には行かないでくれと言われて、とてもがっかりしたけれど、弟が―やはり貧しい中でも男の子は学校に行かせるのです。弟の教科書を見て勉強して、1年生や2年生までは理解できたが、それ以上はできませんでしたという話。それから、やはり10歳くらいの少女が、家族が7名いて幸せな生活を送っていたが、マラリアで一家全滅してしまい、1人だけ生き残ってきたとかという、戦後たくましく生きてきた人たちとか、たくさんの方が、一人一人がそういう戦争中、戦後の苦しみを背負って、母親を助け、学校に行かないで、非常にうらやましがりながら、辛い思いをしながら、自分の名前も書けないということで辛い思いをしてきているのです。
 珊瑚舎スコーレの夜間中学校では、マチカンティー新聞というものがあります。その中で、もう60年も待っていた、自分たちが行けるような学校ができたということで、この生徒たちの聞き書きが書かれています。中でも非常に印象に残っているのは、テレビドラマのおしんは苦労したけれど、それでもおしんは読み書きができた。そういうことができたから、自分たちも苦労しているが、読み書きができないということで、おしんは読み書きができてよかったとか。また、私が直接言われたことは、「先生たちはぜいたくでいいね。大学にも行けて」と。それは素直な気持ちではあったかと思うのですが、この方は文字が読めない、書けないが、車の免許をとるために本を読んで暗記し、教えてもらいながら、それでも自動車教習所の方に「ここは小学校ではないよ」と言われながら、6回くらい試験を受けて免許を取ったという方もいらっしゃいます。7歳で年期奉公に行って、いわゆるイチマンウイです。それを20歳まで務めて、この方も一生懸命働いて、酒屋で酒粕を運ぶ仕事をしたり、魚とりをしたり、かまぼこを売ったり、レストランで働いたりして学校に行けなかった。でも、ハウスキーパーやハウスボーイとして働きながら、間接的には税金を納めているのです。実際は義務教育である15歳までの期間も、その酒屋が税金を払う、ウミンチュの親方が税金を払うということで、義務教育の年齢であるにもかかわらず、間接的にではあるが税金を払ってきて、今やっと時間ができたから勉強をするということでやっているのです。やはり、戦後補償の期間として支援してもらったことについては大変感謝しています。
 皆さんは年金生活者が多いのです。県からの支援は夜間中学校を支える一つの大きな力になっております。ですから、ぜひこの支援は、教育機会確保法にもありますように、国や地方自治体は、これに対する財政的な支援をやるべきだということで、去年の2月から実施されてしかるべきなのです。沖縄は、公立の夜間中学校が一番欲しい地域ですが、戦後そのままにされてきて、珊瑚舎スコーレが初めて夜間中学校として2004年にできているのです。そのとき、私はその創立期からボランティアをやっておりますが、ずっと文教厚生委員会に要請―陳情は2回目なのですが、中学校の卒業認定をとるための署名運動を行って卒業証書が認定され、それで定時制高校にも進学できるようになりました。それから、この補助金ができたおかげで、該当者が授業料を免除されて、非常に力になりました。でも、当然まだまだ該当者がいるので、続けられると思っていましたが、現在、この支援は打ち切られています。ぜひ、この支援については、戦後補償ということだけではなく、やはり教育機会確保法の精神にのっとってやってほしいと思います。
 今、県教育委員会では検討委員会を設置しているようですが、設置しても何年後にできるかはわかりません。早くても一、二年後にできると思うのです。その間を、珊瑚舎スコーレの夜間中学校やほかの民間の夜間中学校をつなぎとして使っていく。また公立の夜間中学校ができても、珊瑚舎スコーレを初めとする民間の夜間中学校に対しても支援を続けてほしいということを要望します。

○西銘純恵委員 少し経緯についても触れていただきました。戦中・戦後ということで受け入れを始めたということなのですが、行政が補助を出すきっかけといいますか、そこら辺のいきさつについて、少し御説明していただけますか。

○星野人史参考人 以前に出した陳情は、夜間中学校を支援する―具体的には珊瑚舎スコーレの夜間中学校を支援すること。それから卒業を認めてほしいということです。それに加えて、柱としてあと2つあるのですが、実態調査をするとかというようなことがあって、それが認められた結果として、これがあるのです。すごいことを沖縄県がしたのです。実際の卒業証書は、現に在籍する学齢期の子供たちに渡す卒業証書とは別なのです。特例的な措置ですから、その卒業証書を持っているからといってヤマトの高校は受験できません。私はそれでは、まだ不十分だと思っています。
 そういう形で働きかけをした結果として、これを認めるところとなった。今度、その支援も終わってしまうとなると、いわゆる法制的なところから少し外れていることをやっているわけです。でも、先ほど申し上げたとおり、制度は人間に寄り添うべきです。制度がシャットアウトしてはだめです。こういう制度になっているから、これはだめだということではなくて、そうであれば制度を変えなくてはいけない。それを私たちがやらなければならない。県民の代表である県議会議員の皆さんが、やらなくてはいけない仕事です。制度をそういう状況に持っていく、寄り添うために何ができるかです。制度の枠を持ってきて、これは法制的におかしいから、もうだめ。今年で終わった。それはやってはいけないことです。ここまでできたことを、後退させるようなことをしてはいけないのです。それが一番感じていることです。
 そのときに、いろいろな陳情というか、署名・請願をしました。署名・請願によって、お金も出すと決められた。だからそのことは法規的な措置なのです。そのお金を出すこと自体は、珊瑚舎スコーレがお金をもらうということではなく―これも説明しておいたほうがいいのかわかりませんが、内閣府―NPO法人は内閣府の所管になっています。内閣府は、NPO法人ではありますが、直接、税金を私的な団体には出すことができないということでした。そのために何が一番いいのかというときに、珊瑚舎スコーレは光熱費など、いろいろな少額のお金だけもらっているわけです。県教育委員会が考えていただいたことは、授業を行う講師の方々に謝金を出すと。それはできるというので、そういう話になったときに、ボランティアの方々が会議を開いてくれました。現実として珊瑚舎スコーレの運営が大変だと。だから珊瑚舎スコーレに直接支援してほしい。私たちは謝金がほしくてボランティアをしているのではないという気持ちをわかってほしいと。だから変えてほしいと。それを変えられるような仕事をするのが、僭越ですが県教育委員会のお仕事ではないのですかということを、かなりのボランティアの方が言いました。それでも、それは無理だということでした。それで、ボランティアの方々がどうしたかというと、謝金は受け取りますが、その謝金を珊瑚舎スコーレに寄附します。運営が大変なので、先ほどから言っている同行者が集ってくれること、これはとても大切なことです。お金を一番に考えていたら同行者などは募れません。そうではない形でやろうとすること、できることをやろうとすること、そういうときに集まってきてくれて、そういう方々が知恵を出してくれて、その方々ができることをしてくれる。それが大切なことです。そういう形で、今の珊瑚舎スコーレができている、夜間中学校は寄附金があるから運営できているのです。
 夜間中学校は、10年枠の方の授業料を無料にしているのではなく、義務教育未修了者は全員無料です。県の支援は、10年間については補助すると。それについては、私から再三、違うと言っています。年齢の枠を設けるべきではないという主張をずっとしています。外国籍についても同じです。
 先ほど、インドネシアの生徒のことを言いました。インドネシアの外国籍を持つ生徒は、現役の中学生でした。珊瑚舎スコーレのような学校があると言って、お母さんは日本人でした。インドネシア人なのですが、その生徒がわざわざ珊瑚舎スコーレの夜間中学校に入るために、インドネシアからこちらに来てくれたのです。そこで、その生徒と勉強しながら、彼にもいわゆる卒業証書を渡してほしいと県教育委員会にお願いしました。ところが、これについては10年枠があるからできないのだと。そのとき、実際に同じ勉強をしているのにです。その生徒に対して卒業証書を出していれば、彼は同じように定時制か通信制にするかわからないのですが、沖縄県内では高校に進学できたのです。そういうことを考えると、できる限り、実際の人間に寄り添う形を模索することが仕事なのであって、制度があるからこれ以上はだめですと、シャットアウトすることではないのだと思います。できるだけ人間に寄り添う形をつくるということを、ぜひお願いしたいし、今回の決定は、人間から離れていくのではないか、その実態から離れていくのではないですか。そんな後退するようなことは、やはり恥ずかしいことであると捉えてもらいたいというのが、生意気ですが、私の率直な気持ちです。

○西銘純恵委員 3月に教育庁の陳情審査をやったときに、平成27年の教育長通知に基づいて、平成29年度で珊瑚舎スコーレに対する補助を打ち切るということについては理解されていたと思っていたと教育長が答弁されたのです。そこで、法の趣旨を踏まえて、これから検討委員会で公立夜間中学校についての方向性を出していくということを言ったのですが、この皆さんが理解していると思ったというところに、県が考えている―新年度も7名の戦中・戦後の方がいますね。継続して生徒がいるので、当然皆さんは補助をしながら新たなものに変えていくという理解があったのかと思うのです。県は打ち切りはオーケー、新たなときにもう一度どうするかという、そういうようなずれがあるのかと思ったのです。この県教育委員会の対応について、どのようにお考えですか。

○星野人史参考人 支援を打ち切ることについてはノープロブレムです。全く構わないと思います。それがずっと続くわけではなくて、この制度が恒常的なものとして続いていくものとは全然考えていないですから、終わって当たり前だという意識はあります。ただし、再三言っているとおり、年齢で枠をつくることについては、教育の問題としては考えていないです。これは政治的な問題です。戦後処理という言い方はまさにそうですし、政治的な課題としてあるのだから。そうではなくて、学ぶ権利を保障する問題ということから考えれば、当然、いつかはなくなってしかるべきでしょう。いつまでも続きません。先ほどから言っているとおり、県教育委員会は、珊瑚舎スコーレはどうするのですかと言う、珊瑚舎スコーレはやりますと答えているのです。こちらからは協働についても呼びかけています。一緒にやりましょうと。だから、要するにNPO法人である珊瑚舎スコーレという学び場について、無意識のうちに学校信仰が強い方は―それだけ柔軟な考え方がないのではないかというのが率直な気持ちです。
 先ほど、夜間中学校の生徒たちにすごいドラマがあると。これについては昼間もあります。親御さんが来て、うちの子が初めて親にありがとうと言えたと。あんなに嬉しいことはありませんと。あるいはその生徒の笑顔を見たことがない―担任の先生が見学に来て、あの子があんなににこにこして友達と話しているのを見たと。だから、そういう実態を見ずに、ある幻想を見て判断しているのではないかと思っています。すごく失礼な言い方になるのかもしれませんが、生徒の実態を考えるとそういうことを言わざるを得ません。だから、珊瑚舎スコーレがやっていることは全国的に評価されているのです。したがって、そのことに目を向けてもらって協働でやりましょうと。沖縄県に公立の夜間中学校を一つだけつくってもしようがないです。離島もあるし。だから、珊瑚舎スコーレのようなやり方はすごい価値がある。それで教育にみんなが参加してくるということが大事です。今の学校は、全部を公開しないで排除している。珊瑚舎スコーレは常に全てを公開しています。いつでも見学してください。毎日が参観日です。そういうやり方で、教育にいろいろな人がかかわってくるというやり方をしていかないとよくないです。だから、行政のその判断をどう思うかというと、NPO法人が運営しているわけあり生徒のための学校なのだという意識があると思っています。それは間違っています。実態をきちんと見てほしい。いつでも見学をさせています。そんな意識を私は常に持っています。誠実に応えてくれていることもありますが、基本的にはそこですね。そうではないということ―今度の法律はそれをうたっていますし、その前にあった馳文部科学大臣が出した馳試案というものを読んでいただければ、面白いことが見えてきます。その流れの中から現在の状況があるのだということを知ってほしいと思います。

○西銘純恵委員 県教育委員会は、検討委員会で夜間中学校を1つ以上つくっていくということがあります。今、県議会でも、戦中・戦後の補助については、まだ、その要綱も残っているので、それができる期間です―今すぐに打ち切りということではなく、補助を継続しながらやるべきではないかということで考えていますが、その考えでよろしいのかということです。
 戦後教育の出発というものは、政治が教育に介入して侵略戦争というところまでいったということで、政治の介入を行わせずに教育が自由にやれるという―教育の独立というものが重要ではないかと思っています。先ほどお聞きしましたことについて、お答えいただけますでしょうか。

○星野人史参考人 戦後補償ということではなく、要するに学ぶ権利をどのようにして保障するのかが問題です。そこに立って考えないとまずいのではないかということが一番お伝えしたいことです。これは、戦中・戦後の混乱があって、義務教育が受けられなかった人に対してどうするのかという問題と同じように、現在は戦争とは別の形で学校に行けない状況があるのだという想像力を持ってほしいということです。
 ですから、検討委員会でどのような検討をするのかが問題ですが、その戦中・戦後ということだけではなく、年齢に関係なく、世界人権宣言、あるいは子供の権利条約の中でうたわれていることに寄り添って検討していただきたい。そうしないと、制度に人間が合わせないといけないという状況ができる。そういうことを一つ一つなくしていこうということです。夜間中学校はそこに近づいている状況があるから、そこをさらに進めていただきたいということが検討委員会の方々に伝えたいことです。
 それから、政治状況と教育の問題というものは分離して考えなければいけないということについては、私も理解しています。だから、それはそれとして、先ほど委員から御質疑があった直談判の話については少し検討させてください。選挙の結果によっていろいろと状況が変わるわけですから、そこから独立した形で教育については考えなければいけないと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 比嘉京子委員。

○比嘉京子委員 お話を伺うことができて大変参考になっています。
 県の事業としては、戦前・戦後の混乱期において、中学校未修了者に対する支援事業として、珊瑚舎スコーレを含む3事業所に対してこの事業費を投げたわけです。よくよく考えてみると、スタートから今のような教育の理念と、県が考えていたことにそごがあったのかというように思えてしまうわけです。もちろん教育が人に寄り添っていくということは、県教育庁も同じではございますが。
 この事業に関して、これまでに昭和7年から昭和16年までを対象とした戦中・戦後の混乱期について、義務教育未修了の方は珊瑚舎スコーレから何名卒業されたのでしょうか。

○星野人史参考人 正確な数はわかりませんが、八十数名だと思います。進学者数ではありませんが。

○比嘉京子委員 平成23年に、県内における戦前・戦中・戦後の方々のうち、未修了の人を対象に調査を行ったわけです。そのときに41名の希望者がいるということがわかって、その方々を救っていくためにどうするかということで、珊瑚舎スコーレの実績等の提案などを見て、そこでやっていただこうということが、3事業者に決定した理由の一つだと理解しています。ですから、皆様のところで修了した方の中で、その対象となる昭和7年から昭和16年までの方のうち何名の方が修了したのかということが、まず一つのポイントになるのかと思います。
 平成27年の入学時に、その対象となる方は何名いらっしゃったのかということを伺います。

○星野人史参考人 質疑については資料を見てもらえればわかると思います。12名の方がいて、そのうちで対象となる10年枠に当てはまる人は5名です。現時点で答えられるのはその数字です。これについては、きちんとした資料に基づいて、この場ではっきりとしたことが言えませんので、後で確認した数字をお知らせします。
 それから3事業者のお話が出ました。これが出て、前回の陳情のときには、珊瑚舎スコーレがやっているようなことを県内でもやってほしいということを県教育委員会は言っているのです。珊瑚舎スコーレ以外に2つのところがやっている。皆さんにお配りしている実践報告書の内容については、それぞれ3事業者の方々が恐らくやっていることだと思っていて、県教育委員会は3事業者の人たちが集まって夜間中学校の実践交流の場をつくっていきますということを言っているのです。ところが、それができていない。できないうちにもう終わったと言っている。
 もう一つは、現在、珊瑚舎スコーレに来ている生徒さんで、その3事業者の中の別のところに通っていたのですが、残念ながら勉強の中身が少し違っているから、私は珊瑚舎スコーレ―家の近くではないが珊瑚舎スコーレを選んでいるのだということをおっしゃっていました。そういうことがあるので、その3事業者と今後の夜間中学校について、どのように運営すべきかということを考える場が欲しかったのです。ただ、そういう場がなかなかありませんでした。実践報告書の内容を確認してお互いに交流したいということは、県教育委員会に言っています。

○比嘉京子委員 平成27年にお話があったときには、平成29年で終わるという話があったのでしょうか。その昭和7年から昭和16年の方々に、平成27年入学のときに、3年後にはゼロになるという可能性があったので、そういう打ち切りのお話がでたのかどうか確認したいのです。

○星野人史参考人 そのことは言っています。該当者がいますということは教育委員会に言っています。

○比嘉京子委員 お聞きしていて、やはりおっしゃるとおりなのかと。先ほど野原補助者からお話がありましたが―現在、検討委員会で検討しているという今般の教育長の答弁でしたが、やはり継続して学んでいる方がいる中で、事業への支援を打ち切っていくということは、私たち県議会議員の考え方とも相入れない部分があるのです。ですから、次の新たなシステムができるまでのつなぎはもちろんのこと、それが速やかにつながっていくためには、我々も支援をしていくという、全委員がそういうスタンスであると思います。今回の陳情を受けて、我々は県にその事業を切るのではなくて、新たな事業を展開するまでの間も含めて、継続的にいくということを再認識して、皆さんの思いの方向にいけるように努めていきたいと思っております。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 亀濱玲子委員。

○亀濱玲子委員 この事業がスタートしたきっかけとなる戦中・戦後の混乱期に学べなかった人たちへの保障というものは、今質疑をしていただいた中で、この機会に気がつかせていただきました。この機会に学ばせてもらったことは実に大きいのです。例えば、年齢を問わず一人でも学びたいという人がいたら、その学ぶ場についてはあるべきだという考え方がとても大事だと思っています。私は離島出身なので、この話が出たときに、それぞれの暮らしている場所で学びの保障については考えなければいけないという話がすぐに出たのです。次への取り組みを示唆することが、みんなが共通認識で議論ができるということになっていくのかと思っています。これに関しては珊瑚舎スコーレのこの動きをありがたいと思っています。
 そこで、ぜひ経験から―例えば、沖縄県下で夜間中学校が1カ所や2カ所あれば足りるわけではないですから、沖縄県全体を見て、星野参考人が沖縄の取り組みにについて提言したいということがあればお聞きしたいと思います。

○星野人史参考人 瀬底島老人会が私を呼んでくれたことがありました。学校の話をしてほしいと。それで瀬底島の公民館でお話をする前に、老人クラブの会長さんが―今でも忘れません「さぁ学校が始まる」と言って、みんながラジオ体操を始めたのです。うわあと思って。それで、学校の話をしたら、「行きたい」と。「でもここから那覇には行けないさ」という話がありました。だから、1つでは足りないということをずっと言ってきたのですが。例えば、瀬底島にそういう方々がいらっしゃるときに、どうすべきかということなのです。だから、今の学校教育法の範疇でそれを考えていたらできません。あるいは瀬底中学校にどうするかということについてもすごい縛りがあります。だから私は、沖縄県の状況を考えたときに、県は条例を定めて義務教育を保障していく。いわゆる教育機会確保法などがあって、それを保障していくための学校教育法の枠とは違う形で学びの場を考えるということが、検討委員会では必要だと思っています。学校教育法に合わせて考えていたら、これは恐らくできない。絶対できないということになってきます。そういう検討委員会であってほしい。実態に合わせて、どうすれば寄り添えるのか。教育の枠をはめ込んでしまったら、本当に考え込んでしまってどうしようもなくなる。そこから、自由になる。自由になって考えてみること。そこでこれができる、あれができるということだと思っています。
 私が夜間中学校や珊瑚舎スコーレとフリースクールを運営していて思うのは、ボランティアで参加してくれる方々の力です。つまり、お金をもらって何かをするという、労働としてもすごく大事なことです。しかし人間は、それだけではない価値を求める生き物なのです。そういうことも、頭に入れて学びの場をつくっていく。常にボランティアにお願いするだけではだめです。ただし、参加する余地をつくるのです。これは震災復興でもそうです。定期的にずっと行っている方がまだおります。そういう人間の気持ち、それを行政がすくい上げて、学びの場を一緒につくっていく。だから検討委員会の中では、沖縄県の離島でこういう学校をつくらなければならないときに、退職者の先生方の集まりがあって―そういう方々まだ若いです。その方々に対して予算の問題があるのでボランティア講師として参加してほしい。そういうスタンスを、検討委員会ではどうしたら可能になるかという視点を持っていってほしい。また、そういう中に、珊瑚舎スコーレの経験がありますから、私たちがやったことを生かせるように、珊瑚舎スコーレに寄り添ってくださいということをお伝えしています。

○亀濱玲子委員 珊瑚舎スコーレに寄り添うということに関しては、本当にみんなが共通の認識を持てたと思います。例えば、私が興味を持っているのは、公立の中学校をつくるというような、枠にはまった考え方ではなくて、珊瑚舎スコーレのような方々と協力して、得意分野がある民間の方と協働という形を―例えば、地域での可能性がもっと緩やかに生まれていくのかと思います。今、条例を定めてという具体的なお話をされたので、協働でということについて、もう少し踏み込んでお話をしていただけますか。

○星野人史参考人 全てを学校教育法の枠の中で考えていたら、莫大なお金がかかってしまいます。そうではなくて、珊瑚舎スコーレがやっているのは、ビルの―今、100坪くらいの広さを借りているので相当な家賃がかかっています。例えば、珊瑚舎スコーレの近くには神原小学校と神原中学校がある。また壺屋小学校があったりする。そういうところを利用する方法を、学校教育法の枠で考えるのではなくて、違う法律の枠で考える。どのようにすればそれができるのか。それから、専従を置かなければならないし、この方々に賃金を払わなくてはいけません。どこまで賃金を払っていくのかということも、枠を決めていくことです。それから、グラウンドをつくらなくてはいけないとか、図書は何冊置かなくてはいけないとか、大変細かい規定がありますが、それを一度取っ払って、できることからスタートしたほうがいいと思います。この地域でできることを、それこそ地域ごとに検討委員会を置いて、学び場をどのようにしてつくっていくかということをやらなくてはいけないと思っています。そうしないと、いつでも制度とお金の壁があってできなくなってしまう。早くそういう動きをつくってほしいです。何年後にできますということではなく、現に生徒がいるのですから。今年から何ができるのかということです。

○亀濱玲子委員 自治体によっては学校に行けない、あるいは心因性で不登校になった子供たちの学び場というものが、これは適応指導教室とかありますが、今おっしゃっている夜間学校とフリースクールが一つになるということは、とても魅力的だと思っています。この緩やかな可能性というものは―地域の条件もありますね。島であったり、あるいは街中であったり、いろいろな条件があるので、通ってくる方々の条件が随分違うと思います。このフリースクールと夜間中学校というものは、このスタイルがいいという経験上のものはありますか。

○星野人史参考人 今おっしゃっている、学び方に枠をつくるということは、できるだけなくしたほうがいいと思います。だから、これは夜間中学校ですとか、これはフリースクールですとか、珊瑚舎スコーレでは余り考えていないのです。どちらも同じ考え方でやっています。夜に通える人のためにやっているのです。それから、珊瑚舎スコーレではそこに通ってくる方々が、かつて貧困のために学校に行けなかったから、夜間は義務教育未修了者の方からお金はいただかないこととしています。ただ、昼間の中等部がありますが、中等部についてはお金をいただいています。月々2万3000円くらいいただいています。これでも安いです。そこのところをどのように制度として考えていくかです。

○亀濱玲子委員 今伺っていて、今回珊瑚舎スコーレのことが本委員会で取り上げられたことはとてもよかったと思っています。沖縄の戦後の課題が、一定程度スライドして、本当に学ぶことができない全ての人に開かれる場として生まれ変わっていくというか、それがさらに地域に広がっていく可能性というのが今回の問題提起であり、むしろこれを契機にして考えなければならないという問題提起を、議会人である我々や行政にもお伝えしていただいたのではないのかと。少しでもできることは何だろうと考えていかなければならないと思いました。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 金城泰邦委員。

○金城泰邦委員 先ほど御答弁いただいた新里好子さん、牧野順子さんを初めとした先輩の皆様方のおかげで、このように立派な県議会で、我々は県議会議員として仕事をさせていただいております。改めて皆様に感謝と敬意を表したいと思います。
 我々、県議会議員も、これまでの沖縄の発展のために貢献していただいた皆様に恩返しする必要があるという思いを、お話を伺う中で、改めて実感させていただきました。珊瑚舎スコーレの星野理事長におかれましても、その方々に学ぶ機会を与えるために、これまで14年間頑張っていただいたことに感謝を表したいと思っております。同時に、今回、補助が打ち切りになるということに対しては、本当に私自身も申しわけなく思っております。これについてはやはり皆様のお話を伺って、改めてこの事業を継続していくべきものだということを実感をさせていただきました。
 これまでも、星野参考人は県教育委員会と、この補助事業が打ち切りになるまでの間、意見交換をされたということで、県の答弁の中にも出ておりますが、その中で星野参考人から県教育委員会に対して、この事業の継続の必要性をどのように訴えてこられたのかについて、教えていただきたいと思います。

○星野人史参考人 再三申し上げているとおり、これは時間、年齢の枠をつくってやるべき問題ではないので、年齢の枠を外した、協働でやるべきものです。補助金という言い方については、私は少し違和感があります。補助金ではなく、やはり行政がやるべきことなのです。中心になってやるべき行政の仕事です。行政の仕事、やるべきことだから、補助ではなく協働してやっていこうという提案をしています。ただそれが、どのように届いているのかわかりませんが、電話での応対などでもそういうことを申し上げています。義務教育課長との話し合いの中でも、そういうことは申し上げたことがあります。ただ、それがなかなか出てこないのです。だから、やめますと言って、次がないということは大変残念です。いつでも、県がどうするのかを聞きたい。対象者がいらっしゃるのに打ち切ってしまうということについて、少し私の想像力の中ではなかったのです。それがこういう形になっています。

○金城泰邦委員 この学校に通われている方の思いが配付資料につづられておりますが、義務教育未修了の方の御意見の中に、入学が決まったら子供たちも大変喜んでくれたということがありまして、本人の思いとしても、この学校に通って、字をゆっくりでもいいからきれいに書くのが本当に嬉しいというコメントがあるのです。どの科目が好きとか嫌いではなく、みんな好きだと。この学校に来ないわけにいかないと。それだけ無学のままであった60年間は真っ暗だったというコメントが紹介されております。本当にこれまでの60年間、珊瑚舎スコーレに通うまでの間は本当に苦しい思いをしたのだなと、改めてこの資料を見ると私たちに伝わってきます。
 珊瑚舎スコーレがこの事業に取り組んでつくってきた成果というものは、非常に大きいものがあると思っています。これまでの取り組みというものを、本来は継続して、今後にそのノウハウを生かすことが、県教育委員会としてやらなければならないことだと改めて実感するわけです。今後、公立で新たな夜間中学ということもありますが、これまでのノウハウを全部なしにして、新しくやろうということ自体に、多くの労力がかかるし、また一から積み上げるのかと。改めてこんなもったいない話はないと思うのです。そこからすると、星野参考人の連携をして一緒にやるという、それを続けていけば、この意見にあるように、字を書けることが嬉しい、学ぶことが嬉しいという方々を1人でも2人でも多くの方について楽しい人生に変えていただけるのではないかと思います。私たちの子や孫の世代からすると、まさにこれを続けることが皆様に対する恩返しだと改めて感じております。
 先ほど新里補助者、牧野補助者のお話もありました。ぜひもう一度、この珊瑚舎スコーレの事業を継続してほしいという思いをお聞かせください。

○新里好子補助者 市役所など公の場に行って、字が書けないということ。これがもう大変な苦痛というか、本当に貧弱です。委員がおっしゃったとおり、貧弱から立ち直ると、子供たちが挨拶できるようになったとか、親や家族全体が喜んでおります。それで、珊瑚舎スコーレに通ったことで、子供一人のために家族全体が喜ぶとか。また、市役所で読み書きできないから書いてくださいと言って、そこの方にお願いするのもとても恥ずかしいことです。これができたということは、とても偉くなった感じです。この珊瑚舎スコーレがあったおかげで、私たちは、今からの人生だなと思っております。こんな公のところでお話できるということも、とてもありがたく思っております。

○牧野順子補助者 私、牧野順子は、きょうも市役所の帰りですが、娘と一緒に行ってきました。私が字を書けないということを娘はわかりますので、娘が書いてくれました。どこに行くにも娘と一緒です。この書くことが必要なところに行けば「お母さん書けないからあんた書いて」と言う。「お母さんが、これを書くようにしなさい」と。でも、今は、珊瑚舎スコーレの夜間中学校に行って、「お母さん、これくらい書けるでしょう」と言われるようになっています。今は、自分で書きます。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 平良昭一委員。

○平良昭一委員 私は沖縄本島北部の出身で、こういう夜間中学というものに関しては全く無知でありまして、地域の方々もそういうことについては認識していない方がほとんどだと思います。その中で、そういう問題や、これに関する陳情が出てきたことに対して、これまでの状況を勉強することになり、私自身がこれまで無知であったことを反省しております。
 この問題が出てきてから、県の補助金の打ち切りの話ですので、この財源というものは一体どこからどう出ていて、年間どれくらいの資金が必要であるかということについて、まず教えていただきたいと思います。

○星野人史参考人 これは生徒の人数によって決まってきます。昨年度が400万円弱です。どこから出ているのか―これは県の一括交付金ではないのかと思います。もしかすると、今は変わっているのではないかと思いますが。どこの予算から出ているかについて、詳しくは知りません。どこから出ているのかは、恐らく今は一括交付金の中から出ているのではないかと思っています。
 もう一つ、補助金ではない形―補助金という言葉ではない形をどうしても目指したいと思っています。

○平良昭一委員 先ほど、ビルの100坪を借りているということでした。400万円の中からその家賃も出ているということで理解してよろしいですか。

○星野人史参考人 出ていません。それは全く別です。家賃はそれだけではないですから。ほかでいろいろと計算しなければいけないことですから。珊瑚舎スコーレはいろいろな形で予算を組んでやっているわけです。だから、同行者がいてくれることは大変大きいです。寄附金が少し、正確にはわかりませんが、多いときには1000万円くらいあります。補助金とかではない、いわゆる寄附金です。これはその年によって違いますが、少ないときは400万円くらいです。そういうものは、同行者の方々が寄附してくださる。今回の夜間中学校の件があったら、またすごい数にふえるような感じがしています。実際に持ってきてくれますから。ポーク缶に入った500円玉貯金をおばあさんが使ってくれと持ってきてくれます。涙が出るような話ですよ。そういう方々がいるから運営できているわけです。だから、授業料はいただきますが、それで賄えない部分は支援者がいろいろな形で応援してくださるので成り立っているということです。

○平良昭一委員 先ほど報告書に目を通させていただきました。平成23年度からのものを見ているのですが、その中で、ずっと教材や教本の整備等が問題提起されてきているということがありますし、最近はパソコンも必要だということも書かれております。本来、期間も限られているという中で、やはりこの400万円という―補助金では、本来そうであってほしくないという考え方は一緒なので、そういった中で運営をせざるを得ないような状況において、さらに厳しい教育環境をつくってしまっているということはよくわかっています。そうであれば、県教育庁も、珊瑚舎スコーレの意向を十分に理解をしていなかったのでないかと思わざるを得ないのです。
 先般、陳情の審査をしたときに、一定の理解は得られていると思いますが、やはり協議の段階の中で、すれ違いが出てきたのではないかと私は理解しています。そうであれば、400万円に対する補助金という認識を県が持っているのであれば、これはおかしな話です。本来ならば、やらざるを得ないような状況で、県教育委員会は対応しなければならない。ましてや義務教育課の所管になっているということであれば、当然そういう面も踏まえて、報告書の内容もしっかりと見て、県は対応していくべきだと改めて感じました。いかがでしょうか。

○星野人史参考人 自分の立場ばかりぼんぼん言うことは、余り好みではないですから―ただ、ずっと言い続けているのは、10年という枠を取り外しましょう。要するに補助ではなくきちんとしたお金―補助のお金ではない、珊瑚舎スコーレは補助をしてもらうのではなく、協働でやりましょうという提案をずっとしています。それが届かないということは、いろいろな問題があるのだと思います。学力テストをやらなければいけないとか、いろいろな状況があって大変だったと。
 ボランティアの方の話をします。その方は夜間中学校に通っていらっしゃる方と大体同じ年齢ですので、自分が教諭をしているときに、ある人が来て、国家試験を受けたいので卒業証書を下さいと言いに来たと。卒業証書は渡せないと。卒業しているか調べなくてはいけないし、すぐに出るものじゃないと。そこで調べたそうです。その人の名前は卒業者名簿にないわけです。そういう方が、私の周りにたくさんいたと。たまたま私は大学に行けたので教員になっている。校長もしてきた。教育委員会で仕事をしたこともある。今度は私がそういう方々に対して、退職した私が何ができるか一生懸命考えなくてはいけないことを提起してもらっている。新しい教材をつくり―数学の先生です。新しい教材もつくって、一番授業研究をなさっていると思いますが、そういうことをおっしゃってくれているのです。そういう人たちと何ができるかということを、制度をつくる方も一緒になって考えないと、珊瑚舎スコーレがやっているようなことについて、なかなか目が向かない可能性があるのかもしれません。常に生身の人間に寄り添っていく、その人の声を聞いてみるということが大事だと思っています。
 これまでに、県教育委員会から見学に来てくれた方は1人だけです。それから、義務教育課の課長が見学に来てくれたことは2度あります。これは別々の方です。そのような状況ですから、やはりもう少し寄り添う。どんなことをしているのか寄り添う。中には面白い職員がいて、階段を上ってきて、「私は仕事とは離れて、私的に見学に来ています。夜間中学校のことを知ったから、私的に来ています。」と言う方もいらっしゃいますが、県教育委員会としてのスタンスについては少し物足りないなということを率直に感じます。

○平良昭一委員 設置のニーズに合っているのかということについて、県もそれぞれの考え方があるかもしれませんが、やはり一番大事なことは、意見交換の場が少なかったのかという感じがします。きょうのお話を聞いていても、学ぶということが嬉しいということです。実際に経験すべきことを経験していない、学校生活を経験していないというのであれば、学ぶことだけではなく、それぞれの友人たちとの会話、あるいは遠足とか、いろいろなものがありますね。そういう分野に関しても、本来経験させていくべきものがやられていなかったということも踏まえて、設置のニーズというものはそこにもあると思うのです。そうであれば、県の考え方として、改めて珊瑚舎スコーレの考え方、やっていきたいこと、補助金ではないというような形の中での論争を展開していくべきであり、いいチャンスであると考えます。そういうことであれば、これまでの実績を踏まえて、我々県議会議員も恐らく誰一人予算に関してとやかく言うことはないと思います。そういう面ではバックアップできるような状況をつくっていけるようなことで、頑張っていきたいと思っております。ぜひその意見交換をもっと大事にしていただきたいと思っています。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。

   (「質疑なし」と呼ぶ者あり)

○狩俣信子委員長 質疑なしと認めます。
 以上で、陳情第34号に対する質疑を終結いたします。
 この際、参考人及び補助者各位に対し、委員会を代表して一言御礼を申し上げます。
 本日はお忙しい中、長時間にわたり貴重な御説明をいただき心から感謝申し上げます。
 本日拝聴いたしました内容等につきましては、今後の委員会審査に十分生かしてまいりたいと思います。
 星野人史参考人、補助者の野原京子さん、新里好子さん、牧野順子さん、大変ありがとうございました。
 休憩いたします。

○狩俣信子委員長 再開いたします。
 次に、陳情第16号障害児童生徒の通常学校、保育園の受け入れに関する陳情に係る参考人からの意見聴取を行います。
 お手元にあります事務局配付の資料をごらんください。
 長位鈴子参考人から仲村晃氏、仲村美和氏及び早坂佳之氏を補助者として出席させ、必要に応じて発言させたいとの申し出がありますので、委員長として同席を許可したことを御報告いたします。
 参考人及び補助者の皆様、本日は御多忙のところ御出席いただきましてまことにありがとうございます。
 参考人等から説明を求める前に、委員会の審査の進め方について御説明申し上げます。
 まず、参考人等から御説明をいただいた後、委員から参考人等に対し質疑を行うことにしております。
 なお、参考人等が発言しようとするときは、あらかじめ委員長の許可を得なければならず、発言は、陳情の趣旨の範囲内で行うこととなっております。
 また、本日は委員会が参考人等の説明を聞く場でありますので、参考人等が委員に対して質疑することはできませんので、御承知おきください。
 それでは、陳情第16号について、長位鈴子参考人から、提出に至る背景及び目的等について簡潔に御説明をお願いいたします。
 長位鈴子参考人。

○長位鈴子参考人 まず、簡潔に内容からお話しします。きょう午前中に、障害福祉課に差別事例の案件として取り扱ってほしいということで、調整委員への申し出をしてきました。皆さんの御手元に追加資料を出しています。また、県教育委員会へ2月議会の答弁に対する抗議書を提出しています。これは文書にて回答をお願いするということです。
 内容から入ります。配付資料の2枚目です。順序を入れ替え、2、3から先に説明して、1に入りたいと思います。
 医療的ケアが必要な幼児の受け入れをする公立・認可保育園、幼稚園、公立小学校・中学校の確保と、医療従事者の配置についてです。理由としては、現状の障害児が普通学校に通級・通学する場合、教室移動をする際、加配の支援員や市町村の財政裁量に任されているため、各教育委員会において格差が生じています。また、親が頑張らなければ普通学校に通えないのは、憲法第26条の教育を受ける機会を奪い、憲法第14条の「法の下の平等」にも反する。インクルーシブ社会条例第12条及び第26条に基づき、誰もが大切にされ分離されない教育、社会が求められているにもかかわらず、教育の段階で分離されていることは、インクルーシブ教育の構築ではないと考えます。
 2番目に、いわゆる障害者差別解消法に向けた職員間の質の向上に向け、直接、間接、関連性の差別について話し合い、合理的な配慮や予算措置をしていくための職員対応要領づくりと、徹底した職員育成が急務と考える。理由としては、行政法にのっとり、各部局間で障害を取り巻く環境を一つ一つ取り除くためには、障害福祉課の窓口だけではなく、子ども生活福祉部長のもと、各課の管理職を育成するために必要であると考えます。これは、資料の8-6にありますが、対応要領を国から策定してくださいということがあります。障害福祉課もそれに基づいて策定しておりますが、県教育委員会がそれをつくっているのかということ、県教育委員会に対応要領があるのかということが1つ疑問になっているところです。
 3番目に、高等学校入学選抜実施要項についてです。重度知的障害児の高等学校入学選抜制度について、分離教育につながる現状の沖縄県の要項の見直しを要請する。小・中学校卒業後、9割を超える生徒が普通高等学校に進学する現状において、現在の入学試験制度においては、知的障害者、とりわけ重度の障害を有する者の評価を行う尺度がないために、特別支援学校高等部しか選べない状況は不平等であり、憲法第14条の「法の下の平等」に反し、障害のある人もない人もともに暮らしやすい社会づくり条例(インクルーシブ社会条例第12条及び第27条)に基づいて、合理的配慮を検討することを求めるということで、皆さんの御手元にある資料2の9ページ、11番の障害等のある生徒の入学者選抜にかかわる取り扱いという形で、1、障害等のある生徒の配慮についてと書いてあるのですが、学力検査等に際しての配慮願い書という形で、この中には知的障害者の文言が入っていないということに対して、今後、志願者から配慮の要望があった場合に、どのように検討していくのかということが大きな課題であると考えます。

○仲村晃補助者 私の息子、仲村伊織は15歳です。小学校、中学校と普通学校。小学校は普通学級、健常の子供たちと同じクラスで育ちました。中学校では、特別支援学級ではあるのですが、極力5教科以外でのかかわりを特に重視して、学校側にもお願いして配慮していただいて、無事卒業することができました。その間、本当に学校に行くことが彼の生活の中心で、ほとんど休むことなく―熱を出して休んだりとか、家庭の都合でお休みという部分以外で、ほとんど休むことがなく、自分から本当に楽しく学校へ行くことが彼の生活の中心で、友達をつくってきました。
 今回、高校受験ということで、特別支援学校を学校側から勧められたわけですが、ただやはりこういった形で健常の子供たちと育ち合うことで、彼が力をつけてきたのを見るにつけ、親としては、やはり15歳でまだまだ成長する多感な時期、その時期にせっかく築いてきたものを置き去りにして、特別支援学校なのかと。確かに特別支援学校であれば、きめ細やかなその子に合った、ニーズに合った教育を受けられるとあるのですが、そこには健常の仲間がいないのです。そこで、高校を受験することを選択しました。
 実際に、高校受験という場合はハードルが高いと。教育委員会の皆さんや、中学校、高校、どこに行っても同じことを言われました。なぜハードルが高いのだろうかということは、本人に伝えようがないのです。結局、結果としては不合格です。1次募集で南部農林高校の全日制が不合格。2次募集で中部農林高校の定時制も不合格でした。不合格内容の開示を求めたのですが、内容としてはお答えできないと。点数的なものはお答えできるが、内容はお答えできないということでした。その後、やはり本人は学校に行きたい、本人いわく高校は大きい学校と言うのです。「きょうはどうする、大きい学校」と、けさも学校に行くと言っていました。繰り返すようですが、彼にとって学校が生活の中心だったのです。その中でいろいろなことを学んで、今でも実際にこんなことができるようになっていたんだという驚きがあるくらい、私たちも成長させてもらいました。本人に対して、なぜ高校に行けなかったのかというのをどう伝えていいものか。「伊織は障害があるから、世の中の人は障害がある人は特別なところに行ったほうがいいと言っているよ」と言うことが、本当にそれは正しいことなのかと。本人はそういうかかわりの中で培ってきた力があります。これは間違いないです。それを今後も、できればつなげていきたい。でも一般の方からすればそういったきめ細やかな教育ができるところに行ったほうがいいのではないのかというと、もちろんそれはあります。でもその中にコミュニケーションを―人というものはコミュニケーションが生きていく上で一番大事ではないでしょうか。その能力を培うための人がいない。仲間がいないのです。だからそこを彼なりの生き方で培っていきたい。その場が、やはり高校という場ではないのかと思って自分たちは高校への進学を希望して今回、受験させました。
 今回、こういった場で県議会議員の皆さんに、どうすれば重度知的障害のある子が普通の高校に入学して、そこで単位を取って卒業できるのかということを、できればお考えいただいて、それが実現できるような形をつくっていただけると、ほかの子たちにもつながるのかなと。教育は多様性だと思います。多様性の中で人は育つと思います。それは自分の息子を見たときにとても感じました。息子は健常である周りの友達に育ててもらいました。でも、息子も周りの友達を育てました。これは間違いないのです。この多様性の中から、人は育つし、そこから生まれてくる未来というものは、多様性が生む未来、豊かな社会だと思うのです。その豊かな社会は何かと考えたときに、やはりたくましい社会なのです。そのきっかけに自分の息子がなれるかもしれないと、今希望をもって毎日過ごしています。どうかその辺を酌み取って、お考えいただけたらと思います。よろしくお願いします。

○早坂佳之補助者 私からは、法的な関係で補足説明をさせていただきます。資料8-3に、障害者基本法の抜粋があります。同法第2条の障害者の定義のところがとても重要なので、ここを読まさせていただきます。
 「障害者、身体障害、知的障害、精神障害、発達障害を含む、その他の心身機能の障害がある者であって、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活または社会生活に相当な制限を受ける状態にある者をいう。」
 次に、「社会的障壁とは、障害がある者にとって日常生活または社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう」という定義がされています。これが障害者基本法の中で、最もスタンダードな日本における定義になっていまして、沖縄県の条例もこれに基づいた定義になっております。
 これを見たときに、今回の案件については、仲村さんの知的障害が、受験に合格できなかった原因というものは、社会的障壁によって―要は仲村さんは文字を書くことができないし、言葉の受け答えもテストによるものではないのに、それを試験の条件とさせられてしまったことによって合格することができなかったと言えます。それが私たちの主張です。
 次に、資料8-2-2を見てください。私たちの考え方の根幹にあるのは、国連障害者権利条約になります。これに関して障害者権利条約の中で権利委員会というものが持たれていて、この中身について意見書を出すというものがあるのですが、ここの一般的意見というのがとても重要なものでありまして、厳密な意味での法的な拘束力はないのですが、条約の規定に関する一つの権威ある解釈として、締約国の政府、裁判所等においては正当に尊重されなければならない文書とされています。
 資料に図があります。4つの丸いものが書かれている図がありまして、エクスクルージョン、セグレゲーション、インテグレーション、インクルージョンということが書かれていますが、今回、仲村さんに起きているのは、この知的障害があることで、一般の人たちが行ける学校に行けなくなってしまったということ。これが排除に当たる。あるいは分離に当たるものと私たちは考えております。実際にこの一般意見の中でも―これは8-2-1の資料になります。その中の18番の条項を少し見ていただきたいのですが、ここの下から2行目にある規制的条項による排除も含めて禁止されるべきであると書いてあるように、個人の障害による力がどうしようもない部分で、条項によって排除されたり分離されることは禁止されるべきであると、ここでは書かれています。
 次のページにある、間接的な排除は合理的配慮や支援なしに入学条件として共通試験への合格という要件を課すことだと言えると、まさに書かれています。
 74番に、質の高いインクルーシブ教育には、障害のある生徒が直面する障壁を考慮に入れて、生徒の進歩を評価し、監視する方法が必要となる。従来のアセスメントシステムは、標準化された到達度テストの得点を、生徒と学校双方の唯一の成功指標として用いており、障害のある生徒にとっては不利となる可能性がある。幅広い目標に向けた個人の進歩が重視されるべきである。適切な指導方法、支援及び配慮により、あらゆるカリキュラムは障害のある生徒を含む全ての生徒のニーズを満たすべく適合可能である。インクルーシブな学力検査システムは、個別支援制度により強化することができるということで、条約の理念としては、本当に個々の障害、個々の生徒の特性に応じた評価のシステムを適応すべきであると述べております。実際これを準用した大阪の例なのですが、その通知が資料8-9にありますので、こちらも御参照していただけたらと思います。またその前の資料の8-8は文部科学省からの通知で、実際、高等学校入学選抜については、多様性を重視すべきであるという通知も出ています。こちらも参照していただけたらと思います。

○長位鈴子参考人 先ほど仲村晃補助者から北中城小学校、北中城中学校と通う中で、伊織さんも成長させてもらった。その中でかかわった友達は一体どうだったのかということで、今回聞き取りをしてきました。そこを少し発言して説明を終わらせていただきます。資料の10です。
 議員へ贈る言葉。私は小学校から一緒の金城尋成と言います。伊織はとても明るく、北中城の有名なムードメーカーです。伊織は場の雰囲気を変えたり、みんながクラス対抗試合で負けたときなど、伊織が笑わせ、クラスの雰囲気を変えてくれるいい人です。伊織が高校に行けないと聞いて、初めはとても高校側にとても大きな疑問を持っていました。伊織はみんなの人気者で、言葉は通じないけど、注意したらちゃんと聞いてくれるいいやつです。議員さんは、北中城中学校に来て、伊織の生活を見たと言っていましたが、本当のちょっとの5分や10分でわかるわけがないと思います。せめて1週間見てみないとわからないことがあります。伊織を見学したたったの5分間で、もしかしたら伊織が機嫌が悪かったりしたときもあると思います。それに、授業中ではできない休み時間で、伊織への生徒の対応など見たほうがよいと思います。議員の方々は、伊織みたいな知的障害者の生徒と一緒に御飯を食べたり、トイレに行ったり、生活をしたことがないと思います。なので、わからないと思いますが、障害者も一緒の人間です。それに、アメリカではバリアフリー化が進んでほぼ全てが障害者優先されています。日本はおくれているので、世界について行きましょう。そうすれば、日本の平和ぼけしている社会も大きく変わり、今後の日本も期待できると思います。日本がだめなら沖縄だけでも変えましょう。全てをポジティブに考えてください。健常者が全てではありません。障害者にも権利があります。なので、障害者の権利をなくすような法律を変えていきましょう。最後に、伊織はとてもいいやつです。私は伊織にいろいろな経験をさせていただきました。それは、とても今後の私の人生を大きく変える経験です。議員さんも経験した人には耳を傾け、沖縄から、日本をいいほうに変え、障害者にとっても有利な社会にしましょう。金城尋成。
 次に行きます。
 議員さんへの手紙。私は小学校から伊織と一緒の学校にいた仲泊将太郎です。議員さんの人たちは勘違いしていると思います。なぜなら、たった少しの時間伊織を見ただけで「大変だな」とか「楽しくなさそうだな」とか思っているので、ちょっとそれは違うかなと思います。自分的には楽しくなかったらかかわったりしないと思います。でも、伊織といると楽しいから一緒に遊んだりしているので、勘違いしないでください。それに、伊織はとてもいい人です。でも人間をいい人と判断するのは、とても長い時間が必要だと思います。なので、1週間くらいは見てもらってほしいです。伊織みたいな人は、できないことが多いですが、できることだって必ずあるので、もっと考えてみてください。お願いします。
 あと2人います。
 僕は9年間伊織と同じ学校で学んできた同級生の一人です。伊織とのかかわりはなれだとは思いますが、不思議と嫌と思うことはなく、自分から伊織さんとかかわりを持ちたい、助けたいという気持ちが大きかったです。伊織さんのことを議員の方々は見たと言いますが、それはごく一部のことでそれだけでは絶対にわからないことは多いと思います。そして、伊織さんが高校に落ちたというのは非常に残念です。高校が義務教育と違って大変なのはわかりますが、健常者と同じやり方ではない知的障害者専用の制度をつくるという解決法はなかったのでしょうか。伊織さんとかかわるのは楽しかったから、みんなかかわろうとすると自分は考えています。最後に、私たちの力では限界があります。議員さんたちの力もおかりできないでしょうか。少しでもいいので、知的障害者という言葉に理解と関心を持っていただけたらなと思います。年下ながら大きなことを言って済みません。金城千成。
 議員の方へ。あなたは障害者たちをどのようにお考えですか。国にとっては必要ない。障害年金など必要ないお金を生きている意味のない人間に出しているなど、そのような考えを持っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。もちろん、議員さんの皆さんがそう思っているとは思いません。僕は、伊織さんと中学校1年のときに知り合い、体育祭、芸能祭などたくさんの行事に一緒に取り組み、一緒に笑顔と最高の思い出を手に入れることができました。確かに、伊織みたいな子は字をまともに読むこともできません。ですが、何かしら一生懸命に取り組んでいることもあります。あなたたち議員ができないことが伊織にはできます。音を反響させて音を楽しむ。議員さんたちにはこんなのはできませんよね。このような、音を使った仕事も将来は考えることも伊織ならできると思います。邪魔だから、この場に必要ない、このように考えている人がいるのなら、それはきっと間違いです。誰でも必死になって生きています。議員さんたちも一生懸命働いて生きていますよね。障害者の方も一緒にちょっとした仕事なら少しでも稼いで生きています。今、障害者の働く職場は少ないですよね。学校だって障害者は大体決められています。普通の健常者と過ごすことによって、健常者も障害者のことを学ぶことができ、障害者も健常者がしていることをまねして学ぶことだってできるはずです。このような学校をふやしていくことで、明るい未来が見えてくるかもしれませんよね。確かに自分はまだ学生であり、国、県の抱える問題は余りわかっていません。ですが一つだけわかることがあります。障害者はいて当たり前、困っていたら助けることも当たり前、同じ人間だから健常者と同じ扱いをするのがもっとも適している、かわいそうだと思わない、人間みんな違ってみんないい。強い文章になりましたが、これで終わりにさせていただきます。小倉悠河。
 4名の意見でした。説明を終わります。

○狩俣信子委員長 参考人の説明は終わりました。
 これより、陳情第16号に対する質疑を行います。
 なお、質疑・答弁に当たっては、挙手により委員長の許可を得てから行い、重複することがないよう簡潔にお願いいたします。
 質疑はありませんか。
 金城泰邦委員。

○金城泰邦委員 当事者の皆さまの声を直接聞くということは本当に大事なことだと思っております。伊織君の普通高校への入学について、本委員会でも教育委員会とさまざまな議論をしてきたところであります。
 今回、受験しましたが合格できなかったという県教育委員会とのやりとりの中で、伊織君に対しては、特別支援学校を勧めるという見解がある中で、1つには仲村さん御夫婦の、お父さんとお母さんの思いを少し確認したいのですが。県教育委員会が危惧する、懸念することとして、まず1つは、仮に伊織君が普通学校に受験し、合格して入学したとしても、その後単位を修得できるのかという疑問。そしてまた卒業もできないのではないかという疑問を県教育委員会としては持っているようです。それについて仲村さん御夫婦の思いを少し聞きたいのですが、仮に伊織君が単位を取れないという状況が出てきた場合、どのような受けとめ方をなされますか。

○仲村美和補助者 入学できた後の進級や卒業に係る問題は、私たちも県教育委員会の先生方とお話しする中でありました。ただ、実際に、2月議会で教育長の答弁にもあったように、高校の教育課程を履修できる能力のある者を選抜して、合格した生徒を受け入れるとおっしゃっていましたが、高校の現場の先生にお話を聞いたら、履修できるという―この履修の意味が、まずはしっかりとその授業に出席すること。履修の「修」は授業の内容を修めることであるという意味合いだと。ただ、現状97%の子供たちが高校進学する中で、どうしても一定の学力に基準を置いた場合、そこから外れてしまう子供たちが多いということで、その対応をとるための評価基準というものが、学校の裁量に任されていたりとか、今現場の先生方がすごく努力して、その子供が単位を取って進級、卒業できるように、実際に、現場では工夫ができるようになっているという答えでした。ですから、何名かの高校現場の先生がおっしゃるには、入学すれば現場の先生たちが伊織と向き合って、どのようにして彼なりにその授業を受けさせることができるのか、単位を取ることができるのかというものを考えることは可能であると。実際に他府県で―提出資料9-1と9-2に、うちの息子と同じような重い障害のある子供たち、通常の入試制度ならば点数がとれない子供たちが千葉県や神奈川県、それから今回資料は出していないのですが、大阪府とか東京都などからもお話を聞くことができて、本当に早いところでは、1989年から障害の重い子供を受け入れている高校があると。一覧を見てもおわかりいただけると思いますが、神奈川県も千葉県もかなりの数の高校で受け入れ実績があります。実際入った子供たちはどうだったのかと聞いたら、ほとんどの子供が卒業していると。ということは、やはり学校現場でその子供の障害の特性に合わせたり、現場の先生で出席できるような授業の工夫。それから先生の対応だけでは無理であれば支援員をつけるとか。それから単位取得に関してもどうすればいいのかという話し合いが持たれて、そうやって単位を取って卒業していった子供たちがたくさんいると聞いています。だから、沖縄県でも絶対それができるので、これは県教育委員会、学校現場の先生方とよく話し合っていけば不可能なことではない。実際に実績が他府県にはあると。2月議会の答弁の中で、他府県の状況についての情報がないということだったのですが、私たちで調べてみても、かなりの数の生徒、それから高校名がわかりました。ですから、うちの息子も高校に入っても単位が決して取れないとか、卒業できないという部分はクリアできると思っています。

○金城泰邦委員 インクルーシブ教育については、県教育委員会としては取り組んでいると。障害のある方も高校に行けるという思いを持っていると。その受け入れている生徒たちはどういう生徒かというと、耳が聞こえないとか、目が見えないとか、そういった子供は受け入れていると。補助をして受験をするという実例がある。ただし、知的な重度の障害の子供はまだいないということであったのです。やはりその障害の違いで受け入れる、受け入れないという違いが現状としてあって、知的障害の子供はまだ実例が一つもないわけです。そういったことに対して、仮に伊織君が入学したときに、仲村さん御両親のサポートというか、学校への協力というか、その辺の思いがどれくらいあるのか少し聞きたいのですが。学校からこういう協力をしてくださいというものに対して、惜しみなく協力できる思いがどのくらいあるのかということを確認したいのですが。

○仲村晃補助者 その辺に関しては、息子が小学校入学のときに、普通学校の普通学級に入学させてほしいということを当時の北中城村の教育長にお話ししたところ、すごくびっくりされて、何カ月も―大体4カ月くらい話し合いを重ねて、やっと入学できました。その中でも、親御さん自身から丸投げされるのではないかという不安もあったと思います。ただ、自分たちはこの9年間、ほぼ毎年役員をさせていただきました。やはり学校には自分たちとしても手のかかる子供、ほかの子供に御迷惑をかけるのではないかという不安もありましたので、できる限りの協力は―学校の読み聞かせも毎週通いましたし、その中で、自分たちも、実は毎日学校に行けるという、親としてこんなラッキーなことはないと思いながら通わせていただきました。その辺は高校から、例えばそういった役員をやってくれないかと言われれば、喜んでやるつもりでいます。9年間それでやってきました。学校に親としてかかわれるのは実は楽しかったのです。そこは息子に感謝しています。

○金城泰邦委員 伊織君の件について、県議会でも議論させていただいた中で、そういったいろいろな方々の受けとめ方がありました。人によっては、仲村さん御夫婦が伊織君を特別支援学校に行かせたくないのではないかという疑念を持つ方の御意見も承りました。そういったことについて仲村さんの御意見を聞きたいと思います。

○仲村晃補助者 特別支援学校を否定するわけではありません。そこには自分たちの子育ての中に取り入れたい、健常の子供たちとのかかわり、コミュニケーション能力というものがないのです。現実として、本当はきめ細やかなその子のニーズに合った教育を受けさせてあげたいのですが、そこが分離されてしまっているのです。特別支援学校に行けばそういったきめ細やかな、その子のニーズに合った教育が受けられるのですが、やはり自分たちも大人になって、コミュニケーション―人とはやはりコミュニケーション、何が何でもやはり仕事をする上でコミュニケーション能力がないと、人は生きていけないのです。それを踏まえていたので、やはり本当に、喉から手が出るほどその教育は欲しかったのですが、あえて特別支援学校ではない普通学校を選びました。
 先ほどの補足なのですが、その学校が協力を望んできた中で、学校に一緒に付き添いで来てくれるかという話も少しあったのですが、それについては一切お断りしました。なぜかというと、親がいると、子供たちは遠慮してかかわれないのです。それを危惧した上で、自分たちはあえて支援員をつけてくださいというお願いをしました。
 繰り返しますが、特別支援学校の教育は本当に喉から手が出るほど受けたかったのです。でも、それがないのです。ありますか、ないですね。特別支援学校と同じ教育が受けられる普通学校です。健常の子と交わりながら一緒に育ち合える―特別支援教室があると言いますが、実際はその中でも全く分離されています。かかわれるのは給食の時間、体育の時間だけ。学校にもよりますが、幸い北中城村はそれを受け入れてもらって、特別支援学級ではなくて通常の普通学級で受け入れていただき、支援員の配置もしていただいた中で、6年間本当に楽しく、行き渋りを一度もすることなく楽しく過ごして卒業させていただきました。
 中学校に上がったときにも同じくということだったのですが、中学校ではマンモス校になるということと、あとは特別支援学級で得られる教育というのもあるということで、それなら自分たちが欲しかった、本来は伊織に適した教育が受けられるのであればということで、中学校では特別支援学級を選択させていただきました。

○仲村美和補助者 今、夫が話したように、私たちの子育ての方針というか、こんなふうに育ってほしいという思いも、夫が話したような感じで思っていたのですが、ただ実際に、小学校の6年間、中学校の3年間、9年間通っていく中で、障害がある息子の場合は、毎年、適正就学委員会というものがあって、次年度はどうしますかという話し合いが、毎年持たれたのです。そのときに、いつも私たちは来年どうしようかと、そこはしっかりと息子と向き合って考えて結論を出さないといけないという機会がありました。その中でも、やはり普通学校がいいと―小学校のときは普通学級だったのですが、今と同じような環境で来年も過ごさせたいというような結論を出したのは、私たちの思い以上に、先ほども話したように、息子が本当に一日も行き渋りがなく喜んで学校に行くのです。私は「そんなに学校が好きなの」と逆に息子に聞くくらいです。息子はもちろん学校でいろいろと先生たちの手を煩わせたり、かんしゃくを起こしたりすることはあるのですが、それでも次の日は学校に行くので、この子は学校が好きなのだなということが本当に見てわかる。一緒に生活している私たちだからこそ、それはすごく実感として持っています。何よりも、友達とのかかわりというものが、私たちが見ても、言葉のない息子と周りの子供たちはどのようにしてコミュニケーションをとれるのかと本当に不思議に思うくらい、子供同士は言葉を超えたコミュニケーション能力があるのです。それは感覚だと思うのですが、そういうものを見て、本当に障害のある、なしに限らず、子供同士のかかわりを見て、何よりも毎日喜んで学校に行く息子を見ていたら、私たちも頑張って教育委員会や、先生方と話し合いを重ねて、普通学校でずっと過ごさせてきたという形になります。

○金城泰邦委員 今の御両親のお話について、伊織君を普通学校に行かせることの効果というもの、それを裏づけるものが資料の10、友達の御意見であると思います。
 インクルーシブについて、私の個人的な受けとめ方としては、高等学校よりも、むしろ小・中学校、市町村がインクルーシブについては非常に理解があると思っています。やりとりをしていても、小・中学校は義務教育だから受け入れたが、高等学校はそうではないという話も出たりします。それでは、義務教育でなければやれないのかという受けとめ方もできるわけです。
 市町村で、ある作業療法士の方が、普通学校に入った障害の子供を普通学校に行かせることは、とても重要だと言っています。実際に彼が受け持ったクラスでは、新任の先生は発達障害のある子供に対して、自分の思うようにやろうとして教えたり、強制的にやるのですが、同じクラスの子が「いや、その子はそんなやり方ではだめだよ」と、生徒が教える。そういうことを聞きますと、周りの人たちに理解させることの重要さというものがわかるのです。
 伊織君も、これから高校生活の3年間を終えた場合に、その後は成人して、ひとり立ちしていくことになります。恐らく仲村さん御夫婦は先に亡くなって、伊織君だけが残って生きていかないといけない。そのときに、伊織君が乗り越えなければならない課題は何ですか。

○仲村美和補助者 私たちも普段から親離れ、子離れについて考えています。いずれは―息子は重度の知的障害の部分以外ではすごく健康なので、私たちが先に動けなくなるし、先に亡くなると思うので、親亡き後の彼の人生は、彼が生まれてすぐに障害があるとわかった時点から、私たちにとってはすごく大きな課題で、いつも頭から離れない課題でした。だからこそ、息子をどのように育てようかと本当に真剣に考えました。先ほどの話に戻るのですが、特別支援学校があって、その障害の特性ということもしっかりと研究されて、実践されて、きめ細やかな教育が行われている。これは本当にすばらしいことだと思います。でも実際に、今の社会を見たときに、その支援学校が義務教育化されたのが1979年。39年前にその子に合った教育というものを支援学級で行って、たくさんの生徒が卒業しているはずですが、その人たちが今社会でどう生きているのかということを見たときに、その姿が見えない。皆さんが施設の中にいらっしゃって、自由に自分の人生を生きていないという現状があると、親御さんや当事者の方たちから聞いたときに、やはりそれは障害者である前に一人の人間なので、人として自分の尊厳を守りながら、自分の人生をどう生きるかという、それは彼が彼なりに考えていかないといけない。重度の知的障害があるから考えられないでしょうと言われたこともあるのですが、そんなことはないと思います。彼は感じるし、思うし、自分なりに今でも考えたりできます。なぜできるのかと言ったら、特別支援学校に通ってきていないのですが、それは同級生とのかかわりだったり、先生とのかかわりだったり、地域の人たちとのかかわりだったり、人と人としてのかかわりという、向き合ってきた中で彼なりに感じて、彼なりに考えた力につなげることができたと思うのです。私たちはそれをすごく実感しているし、それをすごく評価しています。「あなた、すごいね」と。「障害は重いのに、すごく頑張って生きているね」と。だから過保護にしないで、少しずつ親離れ、子離れの段階を踏みながら、周りの人とのかかわり合う力を伸ばして、困ったことがあったらお母さんとお父さんはその場にいないけれど、周りにいろいろな人がいるからその人たちと相談してごらん、かかわってごらんと。彼はそういう中で育ってきているので、それができる力もついています。私たちはその方向性で育てていきたい。彼がその方向で生きていけば、きっと親亡き後も自分の人生を自分なりに、周りにいる人たちにできない部分はサポートしてもらいながら、でもこんなふうにやりたい、こんなふうに生きたいという自分の意思を表明する力をつけて、自分の人生を充実して生きていくことができると思っています。

○金城泰邦委員 御両親の思いを伺って、改めてこの15年間、伊織君を一番近くで見てきた御両親ならではの思いだと思っています。やはりこういった障害の子は一人一人個性が違いますから、特性も違う。そうであるならば、その支援の仕方も本当は一人一人違う。それを知っているのは仲村さん御夫婦、親御さんだと思いますので、その伊織君に対する確信、思いを、これについては諦めることなく頑張っていただきたいと思っています。

○早坂佳之補助者 補足して説明します。まず先ほどの履修の件ですが、これは県は条約の理念に沿って、とても合理的な―先ほど仲村美和さんが言われたことですが、この現場で入ってから、実際個別の評価の方法やカリキュラムの調整というものをやっていくということは、本当に現場での裁量になっています。これは資料の8-2-1、一般意見の中でも、26の部分で黄色いマーカーがされています。
 あと、先ほど金城委員が言われていた義務教育のところですが、この義務教育の定義は御存じだと思いますが、子供たちの教育を受ける権利を保障するという意味合いがとても強くなっています。つまり保護者や周りの大人たちが、子供たちの教育の権利をどう守っていくかという性格があると思います。したがって、9年間の義務教育が終わったとしても、その後の後期中等教育においても、そこは保障されるべき性格なのかと思います。この41番の(C)の部分に、全ての児童及び若者のための最低12年間の無償の公的資金によるインクルーシブかつ公正な質の高い初等及び中等教育と書かれています。そこをしっかりと保障していくことが必要かと思います。
 最後に、卒業後のところなのですが、これは資料8-1の権利条約第19条、自立した生活及び地域社会への包容というところがありますが、ここに続く―まさに伊織さんがインクルーシブ教育で培ってきたことはここに続いていくものだと考えております。同級生の一人が伊織さんのパーソナルアシスタントという介助者を今後やっていけたらという話も実際に出ていまして、やはりそこのかかわりの中で、そういう意識というものが培われているので、これがもし特別支援学校であれば、やはり周りは障害のある子供しかいないというところがあるので、周りの人たちを変えていくということは、そういう意味もあると思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 西銘純恵委員。

○西銘純恵委員 本当に膨大な資料を提供していただいて、仲村さん御両親の思いもペーパーで先にいただいています。きょう配付された状況でまだ読み込んでいないのですが、やはり思うのはインクルーシブというものがまだ浅い―私たち自身やこの社会の中でもとても浅い。本来なら平等に生きる人として、同じような権利が保障されるというところが憲法にありますが、それがまだ血肉化されていないというのがあらわれているのかと感じながら聞いていました。
 北中城村で頑張られて、四、五カ月くらいかかって小学校に入学できたという話をされたのですが、全県の中でも同じように重度の知的障害を普通学校で受け入れている市町村はないのかと思うのです。そういう意味では、御両親の努力というものがとても大きかったのではないかということを特に感じています。中学校に上がるとき―小学校入学のときは、結構働きかけを頑張ったという感じですが、中校学はどのような状況でしたか。6年間はそんなに難しくなかったのか―そういうことはないと思うのですが、少し御説明いただけたらと思います。

○仲村美和補助者 北中城村は全国的に見ても、インクルーシブ教育のシステムがつくられている市町村であるかというと、そうではないと思います。平均的にどこの市町村でも見られるように、普通学校の普通学級に重度の知的障害のある子供を受け入れることに対しては、現場の先生方も戸惑いがあったし、もちろん教育委員会の先生方も前例がないということで、話し合いには大分時間がかかりました。ただ、話し合いを重ねることで、合意を得て入学がかなったわけですが、すごく小規模な学校だったので、先生方や同級生とも本当に短期間でかかわり合うことができて、6年間は先生、同級生、先輩、後輩、それから地域の方々と密な関係を築ける期間になったと思います。
 中学校に上がるときに普通学級を希望したのですが、多感な思春期―息子以外の周りの子供たちも思春期であるということ、教科が小学校と違って難しくなっていること、ほかの小学校から上がってくる生徒さんがすごく多かったのです。正確な数字ではないのですが、息子と同じ小学校から北中城中学校に来た生徒が46人に対して、ほかの小学校から来た生徒が130人とか140人くらいいて、健常の同級生たちもほかの小学校から上がってくるということで、少しみんな緊張があるという状況が、入学のときにあるものと想定されました。そんな中で、この子は6年間同級生たちとすごく密にかかわり合って生活してきているので、中学校に上がって支援学級に在籍させたとしても、給食、清掃、朝の会だとか、主要5教科以外の教科で普通学級に行かせてもらうという形であれば、学校、本人、周りの同級生たちも無理なく関係性を伸ばしていけるのではないかという部分で、支援学級の在籍ということを選びました。ただ、そのときに学校にお願いしたのは、支援学級だけにとどめるのはやめてほしいと。私たちの思いとしては、やはり普通学級で同級生と、あるいは先生たちとかかわり合うことなので、そこはお願いしますということでやっていました。学校側もできる限り―私たちがお願いした以外の部分でも、暇で行けそうだというときは連れていってもらったり、柔軟に対応して過ごさせてもらった3年間です。

○西銘純恵委員 小学校や中学校でも、結構できないと言われたことを、門戸をあけてきたという感じで受けとめました。
 高校を選ぶ際に、南部農林高校、中部農林高校という選択をした理由はありますか。

○仲村美和補助者 中学校2年生のときに職場体験というものがあって、たまたまですが、息子がお世話になった事業所が自然農法で作物を育てている会社で、そこが職場体験を引き受けてくれました。3日間なのですが、その体験で息子自身は―例えば野菜の収穫とかいった畑の仕事に携わることで、今まで冷蔵庫の中にしかなかった野菜や、お店でしか見なかった野菜が、収穫するときに土の中から出てきたということが、すごく息子なりの発見があって「これはいつもお母さんが料理している野菜だ」と、この子はすごく野菜が好きなので、特に大好きなパパイヤを収穫したときに、木になる野菜もあるんだとか、土からとれる野菜もあるんだとか、すごくこの子にとってわかりやすい、興味を持ちやすい経験が職場体験でできて、それがきっかけになって、伊織のような重度の知的障害のある人にとっても、農業での作業というものはいろいろなマッチング―こういう人たちにもわかりやすいような作業の仕方にマッチングすることができやすいかもしれないと息子を見てそう思って、将来高校を目指すのであれば農業高校がいいかもしれないと思いました。それで今回は農業高校を志望しました。

○西銘純恵委員 将来自立していく、その辺も合わせて判断されたということで、それで沖縄県自立生活センターイルカもかかわってこられたわけですね。農業にしても農林にしても、高校入試の選抜要項を見ても、なかなか新たな壁をあけることになるということを認識されたと思うのですが、その辺で県教育庁に対してはいつごろから事前に県立高校に受験したいと申し出ましたか。それなりの試験の方法―インクルーシブでやりたいということで、いろいろと話し合いをなされたかと思うのですが、そのようなかかわりというのもありますか。

○長位鈴子参考人 まず、小学校、中学校から、最終的に高校はどうするのかということについては、かかわりながら思っていました。というのは、小学校入学のときに、北中城村教育委員会とずっとぶつかっていたので、そのときから私たちは入って行きました。ずっと彼の成長を見ながら、こういうことを本当に面と向かって言われるのかということを、それを目の当たりにしたときに、両親を見ていて、すごく悔しかっただろうなと思ったことが何度もあります。その中の一つとして、本当にこれが教育現場の言葉なのかと思うくらいに「おたくの子供がいたら、ほかの子供たちが教育を受ける、勉強することができないでしょう」と。「だから、邪魔ではないのですが、特別支援学校がいいのではないか」と言うのです。「それでは聞きますが、教育長は特別支援学校の内容とか、教育現場を見たことがありますか。そこから卒業したらその子たちはどうなりますか」と聞いたら、そこからはもう何もなかったのです。それが私たちの最初の出発です。
 中学校になって、1年生、2年生となる中で、仲村夫妻とも話し合いをしていく中で、やはり高校には大きな壁があることは、私たちも重々承知していましたし、何度要項を見ても、重度の知的障害の人たちが入学できるような内容がないのです。それで、今回新たに2月議会―12月議会からずっと話をしていただいたのは、この要項に知的障害者の部分を入れ込まないと、合理的配慮をしていますということがあっても、やはりペーパーでテストを受けられる障害者が一般高校に入学できる、それでは、障害の種類、種別で一般高校に入学できる子とできない子について、どのようにして分けるのですかということをずっと話をしてきたのですが、そこはなかなか門が開かなかったのです。
 やはり予想どおり、高校―私たちからすると伊織は今も座っているし、大分成長していると思うのです。だから先ほど友達からの話があったように、片言であっても、同級生とどのようにしてコミュニケーションをとっているのかととても興味があって、何度も食事をすることになったのです。そしたら、友達と一緒に御飯を食べるのです。別に支援者がいるとか、いないとかではなく「お前、御飯食べろ」、「はい」とか、「何でお前こんな食べ方するのか。きちんと座れ」、「はい」とか、そのような受け答えでやっていたので、多分これは伊織さんに限ったことではなく、障害のある子―特に重度の知的障害の子供たち、自分で身辺自立ができない子たちは、ほとんどの子は高校は特別支援学校に行っています。そしてこれを卒業して大学に行くという形で―高校が大きな壁なのです。そこを何とかしないと、大学には行けるのに高校だけごそっと抜けるのはおかしいでしょうということが今回の陳情書の中で出していることです。

○西銘純恵委員 先ほど、具体的に1989年から調べただけでもと、仲村さんはおっしゃったのですが、やはり入試の選抜の方法についても配慮がなされていて、卒業の実績がある。そこら辺も試験問題そのものに配慮した入試にしてほしいというのが、物理的な配慮というものは県教育委員会もやったのかなという箇所がありますね。門前払いという立場はとらなかったので、やはり皆さんが要望しているようなインクルーシブということで、高等教育もやっていこうという姿勢は見えると思います。ただ、やはり入学した後の体制―今の文部科学省の予算の関係とか、どこまでできるのだろうという、まだ未知数の部分が県教育委員会では強いと感じます。やはり実際やってきた実績をしっかりと検証してもらえば、いろいろな意味で進んでいくのではないかと、期待できる部分があるかと思います。本当に大変難儀をなさっている仲村さん方ですが、後に続く皆さんの関係でも、努力を続けてほしいと思います。
 こちらも調査して、先進地の事例もあるようですから、ぜひ調査してインクルーシブ教育として、名実ともにできるように、誰でも同じような条件で同じように学べるという形で教育が進むことを期待したいと思います。

○長位鈴子参考人 この社会は、まだまだ障害が重度であれば、地域の中で生きるとか、教育を受けるとかが一般の市民や県民からは全然理解されていないということが多くあります。ただ、突破口を開く人たちは相当な難儀と相当なエネルギーと、相当な支援があってできたことなのです。この沖縄でも、医療的ケアが必要な子たちが、それが必要な人たちが地域の中で生きるといっても、まだ20年たっていないので、本当に重度の知的障害を持つ人たちが学校に行くというのもこれからなのだろうなと思います。だから諦めたくないのです。だから諦めさせたくないし、子供たちが、障害のあるなし関係なく、その子供たちが育つ、この環境をつくっていくというのが私たちの使命だと思っています。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 亀濱玲子委員。

○亀濱玲子委員 伊織君のお話を伺ってから、委員長とも御一緒に、県内での支援学校を見せていただきました。また、八重瀬町にある高校の知的障害を持っている生徒さんに対して、どのようにして授業を行っているのかということも見せていただきました。大阪にも行きました。比較的とても慎重に、全てを受け入れているというよりも、いかにその生徒を受け入れるための条件を整えるかということに―どのようにして寄り添えるかということにとても配慮をしているということが、受け入れている学校から学ぶことができたのです。
 今おっしゃった、諦めない、希望すれば普通高校に行けるはずだというものを形にするためには、やはり伊織君にとっての合理的配慮というものは、どのような障害を取り除けば伊織君が高校に入れるのかと―もちろん一人一人が希望するものです。それが整わないと、入っても大勢の中で授業のときに、ただ座っていなさいというような環境ではだめだと思うのです。つまり、何がクリアできて、どのような条件が整えば、学校に入って伊織君らしい能力を伸ばして、伊織君らしい友達関係を築けるのかという視点で、そこを求めていくことが必要だと思うのです。いわゆる障害者基本法でうたわれている国や地方自治体の責務がありますから、責務があるからやらなければいけないというときに、もしも受け皿として入ったときに、どういう条件が整えば、伊織君はより入りやすいんだということを―今伺ったら小学校も行きました、中学校も行きましたという中で、どういう条件が彼にとって必要なのかということを、より具体的に求めることによって、この障壁を取り除くことになると思うのです。もちろん、行政の側が変えなければいけない仕組みもあるわけですが、それを含めて教えていただきたいと思います。

○早坂佳之補助者 高校の先生たちも、そこのところは考えていると思います。ただ、先ほど仲村美和さんが言ったように、これが理由で―つまり条件が整わないから入れませんというようになってしまうと、本末転倒な話になってしまうと思います。そこはしっかりと押さえつつ、これは条件ではなく建設的な対話の中で、それではどのようにして体制を整えていくのかということを、まずはしっかりと押さえていく必要があるかと。合理的配慮という意味ではあると思います。

○長位鈴子参考人 とても大事なのはコミュニケーションのとり方だろうと思います。多分、彼が何を言わんとしているかということは、かかわらないとわからない。私たちでも、事務所に遊びに来ても、本当に会話ができているのかわかりません。でも、これはだめ、ここはだめだよというのと、ここはいいよということをしっかりとはっきり言っていけば、彼はそれをやりません。多分健常な子たちが成長するのと全然違うのですが、彼は彼なりに成長して生きていると、この9年間見ていて思います。あとは意思疎通、意思決定のところのスペシャリストは友達だろうなと思います。友達とかかわっているときの伊織さんの様子などを見ると、支援員は全然太刀打ちできません。一緒に御飯を食べたときも、とろうとすると「だめ」と言ったり、友達も容赦なしに「これはだめだろ」とか言うので、私は多分友達から彼は育てられるし、友達を彼が育ててきたのだと思います。そこは、やはり先ほど友達の手紙にあったように、かかわりながら自分たちもわかってきました。だから伊織は人を育てる力があると思います。意思決定をどのようにして酌み取るのかということについて、これから両親に話していただきます。

○仲村美和補助者 今、この子に週に2回、受験勉強を同じ15歳の友達が教えています。1時間から1時間半くらい教えているのですが、この子たちの勉強の仕方というのが、私たちが勉強を教えるという―教科書を開いて教えるイメージだったのですが、そのお友達から、伊織が言っていることはある程度わかる。でも返すことが難しい。返すときに言葉を並べて相手に伝えるのが難しい。単語が出るか、出ないかという子供なので―例えば面接のときも、質問されたときに意味はわかっても答えきれないところが伊織は不利だねと。これからはAIの時代なのだから、iPadを使って、その子がアプリで入力して、名前は何ですかと質問されたら、名前は答えられるのですが―「伊織」という単語なのです。でも面接だから、「私の名前は仲村伊織です」と答えたほうが面接の場ではふさわしいからと、この子が入力して、名前は何ですかと聞かれたら、名前のところを伊織がタップするのです。やりとりの中で、伊織は名前を聞かれたから、名前をタップしたら、そのiPadが「私の名前は仲村伊織です」と音声が答える。それから「好きな食べ物は何ですか」と質問されたら、答えに対して伊織は何が好きなのと聞いたら、子供同士のやりとりの中で、「おそばが好きなんだ」と言って、「おそばです」とこの子が入力する。試しに「好きな食べ物は何ですか」と聞くと、おそばの絵があって、この子にもわかりやすく、好きな食べ物はそばだからと言って、そこをタップしたら「好きな食べ物はおそばです」と音声が答える。こういう、AIというものをツールとして使えば、伊織もコミュニケーションがとれます。欧米などではそういうものがスタンダードに使われているので、日本も先生方とか教育現場でもっと柔軟にそういうものを使えればいいのにとその子は言っていました。これからは多分そういう時代だという話の中で、そういった機材を使うことで、例えば健常の人たちでもグーグルの翻訳とかを自分の携帯に入れることで、言葉がわからない外国に行っても、その翻訳アプリを使うことで、そんなに困ることなく旅行ができたりしますね。それと一緒で、そういったものを積極的に使えば、そんなに難しいことではない。そんなにすごい専門的な研究を何年も重ねないとできない仕組みかといったら、そういうことではないと思うのです。
 先ほど、長位さんがおっしゃったように、まずはかかわること。伊織がこんなものがわかってきた中で、それぞれがやり方を工夫するとかという姿勢が大事なのかと。子供同士で柔軟につき合っているのを見て、それを小学校、中学校のときに先生方に伝えると「なるほど、教えられるね」と言って、先生たちもまた「それでは、こんなものもやってみようか」というように、先生たちなりに工夫して応用につなげていったということがあります。今まではその連続でしたので、高校も私たちの感覚で言うと、これからも高校の先生方に丸投げするつもりは全くないので、今までやってきた友達とのかかわりや、福祉事業所の人たちと連携すること。またこういった機材などを使うことで、こういったことができませんかというものを、お互いに、日々そういう提案や話し合いの積み重ねでみんなが向き合って、その中から彼は感じ取ることがたくさんあると思います。そうやって過ごしてもらえたらすごくいいなと。それがすごく理想的です。
 私がいつも夫と話をしているのは、専門的なシステム、あるいは知識や実践、経験を重ねた専門家にしかできないとなってしまうと、どうしてもこの子は生き場所すら制限されてしまうので、そのとき、そのときで周りにいる人たちとかかわり合っていけるように。だから学校も教育も、決してその専門的な知識、経験がない先生方がたくさんいらっしゃるかもしれないのですが、そのとき、そのときでいろいろな人たちが提案を持ち寄りながら、こんなふうにしたらこんなことができたんだという部分で、組み立てていきたい。それがこの子に合った教育というか学習などの支援につながるのではないかと思っています。
 インクルーシブ教育システムというものは、一定の標準化されたシステムではなく、個別に対応できる部分で、それは多分周りの人たちが本人と向き合って見つけていくやり方が一番理想なのではないかと考えています。

○仲村晃補助者 今の話の中で、どのようにかかわっていくかという部分で、今回、受験を経験し、県教育委員会とか学校関係者の方とお話ししていて、親として、また本人自身が感じたのは、意識の壁です。学校制度のハードルとかシステム自体のハードルというよりも、個々の皆さん、社会で生きている健常者と―障害者とかかわることが少ない健常者との意識の壁が、とても大きいと感じました。
 実際に、インクルーシブ教育という言葉を挙げている県教育委員会ですら、公平性、正当、公共、平等という言葉をおっしゃるのです。でも、実際はこの受験内容自体で重度知的障害であることが想定されていない。その想定されていない中で、公平という言葉で、ほかと同じように試験を受けなければいけない。字も書けない、言葉もたどたどしくしゃべる子。だから試験をつくれというわけではないのですが、しかし、そこに果たして公平性という言葉が当てはまるのかという部分をすごく感じました。そういうことを聞くたびに、本当に意識の壁なのだなと。しかし、一緒に育った子供たちを見ると、先ほどの作文の中にもあるように、意識の壁なんかないのです。一緒に育っているのです。私はそれを見ていてとても嬉しかったし、何が見えたかというと、やはりこの子の将来―大きく言うと、この北中城村の未来、もしかしたら沖縄の未来に、希望が持てるなと思ったのです。こういう子供たちが大人になったとき、障害者を排除するでしょうか。きっとしないですよね。本当に自分の子供を育てるときに、優しい、人を助けるような大人になってほしいという思いで子供を育てていると思うのですが、実は一緒に混ざることで、そういう子供は自然にできてくると思います。だって弱い立場の人を助けましょうといっても、いないのです。言葉だけが先行していて、自分も子供ができて―伊織のような障害がある子が自分の子供になったときに初めてそういうことと直面して、私も変えさせられました。インクルーシブという言葉を使うのであれば、能力あっての機会ではなく―できてから機会をつくりましょうということではなくて、この交わる機会を与えてから能力を伸ばしていくという考え方で教育も取り組んでいただければ、未来に希望が持てる、社会に希望が持てる教育をつくっていけるものと、本当に私はこの子を育てていて実感しています。
 県の行政という立場で、県議会で、沖縄県のいろいろな施策に取り組まれる立場にいらっしゃる県議会議員の方たちにも、ぜひこの意識の壁という部分を考えていただけたら、すごくいい結果が出てくるのではないかと期待しています。

○亀濱玲子委員 生徒同士のコミュニケーションというものは、やはり何にもかえられない宝ですから、これについてはよくわかっています。私自身も知的障害者の思い、知的障害者のところで暮らしてきましたからそれはわかります。ただ、それだからこそ、条件が整わないから迎え入れないということを言わせないためには―迎え入れる側は、枠があるから入れないのだと今言っているわけです。この枠を取り払うということをしなければ、いつまでもこれが条件になるわけです。
 だから、例えば大阪の事例を見ても、朝から終わりまで同じクラスの中にいるわけではなく、得意なときには入るが、それ以外はほかの場所で、ほかの体験をしたり、学習中はほかのもっとわかりやすい勉強をしたり、そういう自由なカリキュラムの組み方で学校生活を送ることができる可能性があるわけです。それは障害を持っている生徒であってもです。例えば支援員がいたら大丈夫とか、いろいろな条件というものはあると思うのですが、条件を変えなければいけないのは受け入れる側なのです。今、仲村晃さんが意識の壁とおっしゃっていますが、行政や議会は、それを超えて仕組みをつくっていかなければなりません。したがって、先ほどお伺いしたのは、何が受け入れられたら伊織君が、より学校生活を送りやすい条件がつくれるのですということを、どんどん発信していくということは大事かと思います。それは中学校までできていたことなので、高校にその可能性があるとしたら、その受験に合格するということだけではなくて、学校生活をどう送っていくかということを―いわゆる合理的配慮です。彼にとっての合理的配慮はこういう壁をなくしていくということを、行政につくってもらわないといけないわけですから、それを私たちも理解していかなければならないと思いました。行政の壁を崩していくことからかなという感じがします。

○早坂佳之補助者 合理的配慮と環境整備に違いがあるということの補足説明をさせていただきます。今回、この合理的配慮というものはあくまで仲村伊織さんが入ったときにスポットを当てて、この特定のことについてどういう配慮が必要で、どういうニーズがあるかというところに基づいて、学校と仲村さんとの会話を通じながら、それではどういうことが必要ですというものを組み立てていくというものが合理的配慮になっています。
 環境整備というものは、もともとできるだけ多くの人たちを、そこに通えるようにということで、例えば学校のバリアフリー化であったり、もとのカリキュラムの柔軟性を高めたりであったりというところに違いがあるのです。だから、そこら辺をしっかりと整理して、それではどこに環境整備が必要なのか。合理的配慮というものは、入学してみないとわからない部分もあるし、そういう体制をどのようにしてつくりましょうかというところからスタートすると思うのですが、そういう形で漸進的に進めていければいいと思います。
 もう一つの視点として、一般意見の中の30番に書かれているのですが、学校資源というものは、校内での資源で終わるものではないと。学校がある地域とのつながりなどが、今の文部科学省が進めている施策だと思うのですが、そういうものも恐らく仲村伊織さんが学校に入ることで、地域とのつながりもつくりやすくなっていくのではないかという、プラスの面も考えられると思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。

   (「質疑なし」と呼ぶ者あり)

○狩俣信子委員長 質疑なしと認めます。
 以上で、陳情第16号に対する質疑を終結いたします。
 この際、参考人及び補助者各位に対し、委員会を代表して、一言お礼を申し上げます。
 本日はお忙しい中にもかかわらず、長時間にわたり貴重な御説明をいただき心から感謝いたします。
 本日拝聴いたしました内容等につきましては、今後の委員会審査に十分生かしてまいりたいと思います。
 長位鈴子参考人、補助者の仲村晃さん、仲村美和さん、早坂佳之さん、大変ありがとうございました。
 休憩いたします。
 どうぞ御退席ください。

   (休憩中に、参考人等退室)

○狩俣信子委員長 再開いたします。
 以上で、本日の日程は全て終了いたしました。
 委員の皆さん、大変御苦労さまでした。
 本日の委員会は、これをもって散会いたします。 

















沖縄県議会委員会条例第27条第1項の規定によりここに署名する。

 委 員 長  狩 俣 信 子