委員会記録・調査報告等

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文教厚生委員会記録
 
平成28年 第 4定例会閉会中

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開会の日時

年月日平成28年11月9日 曜日
開会午前 10 時 1
散会午後 4 時 45

場所


第2委員会室


議題


参考人からの意見聴取について


出席委員

委 員 長  狩 俣 信 子 さん
副委員長  西 銘 純 恵 さん
委  員  新 垣   新 君
委  員  末 松 文 信 君
委  員  次呂久 成 崇 君
委  員  亀 濱 玲 子 さん
委  員  比 嘉 京 子 さん
委  員  平 良 昭 一 君
委  員  瑞慶覧   功 君
委  員  金 城 泰 邦 君


欠席委員

照 屋 守 之 君


説明のため出席した者の職・氏名

(参考人)(陳情第112号について)
 引きこもりを考える会おきなわ会長  豊 里 友 治 君
 引きこもりを考える会おきなわ副会長 東   邦 治 君
 NPO法人夢WALK代表      平 良 和 之 君

(参考人)(陳情第110号について)
 NPO法人沖縄恨之碑の会事務局員  沖 本 富貴子 さん
(補助者)(    〃     )
 NPO法人沖縄恨之碑の会事務局長  上 間 芳 子 さん

(参考人)(陳情第122号及び第123号について)
 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表  具志堅 隆 松 君



○狩俣信子委員長 ただいまから、文教厚生委員会を開会いたします。
 参考人からの意見聴取についてを議題といたします。
 参考人として、引きこもりを考える会おきなわ会長豊里友治氏、同会副会長の東邦治氏、NPO法人夢WALK代表平良和之氏、NPO法人沖縄恨之碑の会事務局員沖本富貴子さん及び沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表具志堅隆松氏の出席をお願いしております。
 参考人からの意見聴取を行います。
 参考人からの意見聴取については、去る10月7日の本委員会での決定に基づき陳情第110号、第112号、第122号及び第123号の陳情審査の参考とするため、陳情者等からそれぞれ説明を求めるものであります。
 まず初めに、引きこもりを考える会おきなわ会長豊里友治氏から説明を求めます。
 なお、同陳情については、引きこもりを考える会副会長東邦治氏及びNPO法人夢WALK代表平良和之氏を参考人として出席を求めておりますので、御報告いたします。
 参考人の皆様、本日は御多忙のところ御出席いただきましてまことにありがとうございます。
 参考人から説明を求める前に、委員会の審査の進め方について御説明申し上げます。
 まず、参考人から御説明をいただいた後、委員から参考人に対し質疑を行うことにしております。
 なお、参考人が発言しようとするときは、あらかじめ委員長の許可を得なければならず、発言は、陳情の趣旨の範囲内で行うこととなっております。
 また、本日は委員会が参考人の説明を聞く場でありますので、参考人が委員に対して質疑することはできませんので、御承知おきください。
 それではまず初めに、豊里友治参考人から、陳情第112号ひきこもり問題に関する陳情について、提出に至る背景及び目的等について簡潔に御説明をお願いいたします。

○豊里友治参考人 引きこもりを考える会おきなわ会長豊里友治と申します。
 中部地域で引きこもりを考える親の会、通称引きこもり問題を考える交流会と言っていますが、運営して13年目になります。ともに出席しているこちらの方が東さんで、北部で支援活動を行っております。こちらが平良さんで、浦添市で支援活動を行っております。私から陳情の趣旨、背景及び理由などについて述べていきたいと思います。その後、質疑の中で東さんと平良さんにも補足していただきたいと思っております。
 まず、内閣府の平成27年度の調査とその5年前、平成22年度の調査などからうかがえる状況を私たちなりに説明したいと思います。
 平成27年度内閣府による15歳から39歳までの調査ですが、広い意味で広義のひきこもり者が54万1000人となっておりまして、5年前の平成22年度の調査では69万6000人と言われております。5年間で約15万人減少しております。
 ここで広義のひきこもり群と内閣府が定義しているものについてですが、まず1点目は趣味の用事のときだけ外出する。2点目は近所のコンビニなどには出かける。3点目に、自室から出るが家からは出ない。4点目に、自室からほとんど出ないのいずれかに当てはまり、かつその状態が6カ月以上続いていると。軽いひきこもりは趣味の用事のときだけは外出する者で、重いひきこもりは自室からほとんど出ないということで、幅があります。その状態が6カ月続いていると。しかし、その状態があっても以下のところで除外されているものがあります。
 1点目に統合失調症または身体的病気が理由でその状態になっている者を除きます。妊娠した方も除きます。自宅で仕事をしているという方も除きます。出産に伴い育児をしている者も除きます。専業主婦―女性の主婦、男性の主夫、または家事手伝い、さらには普段自宅で家事・育児をすると答えている人たちは除いています。
 次に、厚生労働省のひきこもりの定義を読み上げますが、「さまざまな要因の結果として社会的参加を回避し、原則的には6カ月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出をしていてもよい)を指す現象概念」とされていまして、それでもひきこもりとなる方もいるということです。6カ月以上というのは、内閣府も厚生労働省も同じです。
 それから関連して、厚生労働省のひきこもり問題の研究班長をなさった齊藤万比古さんの見解を紹介したいと思います。
 厚生労働省の疫学調査によるひきこもりの推計値は、23万5000世帯となっております。人数は最低でも25万5000人になると。世帯数で23万5000世帯ですので、人数ではもっと多くなるだろうと。兄弟でひきこもっている場合もあるわけです。緊急に支援を必要とするこの数字と平成22年度内閣府の言っている狭義のひきこもりと照らし合わせて見ますと、平成22年度の内閣府の調査では狭い意味でのひきこもりは23万6000人となっていると。そして、この数字が近いということで指摘しております。
 平成22年度と平成27年度の2回とも調査対象になったのは、平成22年の時点で15歳から34歳までの年齢層であります。この年齢層でひきこもり者の数は5年間で約4万4000人減少しています。この減少の詳細について実態は不明であります。平成27年の調査時点で就職したか、専業主婦になったか、または家事手伝い、身体的病気、統合失調症など、該当から外れた可能性があります。平成22年度も平成27年度も調査の対象になった方々の4万4000人の減少については、推測をするだけとなっております。
 次に、ひきこもり者の性別を見ますと、平成22年度は男性が66.1%、女性が33.9%。平成27年度は男性が63.3%、女性が36.7%であります。女性は妊娠や専業主婦または家事手伝い、家事・育児を理由に除外される数があり、2回の調査で男性の比率がとても高くなっています。確たる理由は不明ですが、親の会に相談に来る事例も男子が多く、しかも長男が多いように感じられます。
 平成22年度に35歳から39歳の年齢層に当たった人たちは、平成27年度は調査対象外になりました。平成22年度当時はひきこもり者全体の23.7%を占めており、最も高い割合でしたが、5年間でどのように変容したかは不明であります。この年齢層が対象外になり、全体の減少につながっていると見られます。
 次に、平成22年度と平成27年度の15歳、19歳の年齢層でひきこもり出現率が15.3%から10.2%に減少しています。平成22年度と平成27年度で若い層の15歳から19歳は随分減ったということです。人数で5万1000人減少していますが、残念ながらこの要因分析は不明であります。ただ、私たちが平成20年から平成24年までの5年間で小学校、中学校の不登校の生徒の減少傾向が見られるということとの兼ね合いでその減少が反映されている可能性があります。
 次に、ひきこもり者本人を含めた同居人数についても調べが行われておりますが、ひきこもり者含めて両親との3名家族の世帯が平成22年度は30.5%だったものが、平成27年度に42.9%と12%余りアップしています。そして、4人家族が30.5%から16.3%に減少していますが、ひきこもり者本人と両親だけの家族が目立ってきたのではないでしょうか。主な生計者で父母の割合が増して本人の割合が減少し、さらには生活保護が3.4%から4.1%に微増しております。ひきこもり者本人に家庭の暮らし向きを問うておりますが、2回の調査とも生活水準は世間一般と比べてみて、中レベル以上―それぞれ3段階に分けて上・中・下に分けておりますが、そのうち答えさせますと中の下から上ということで、これが7割を超えています。ただ、両親亡き後、ひきこもっている本人は無収入ということになりますと、見通しが全く立たなくなるわけです。親の心理的な状態は非常に不安であるわけですが、その本人たちとの心理的な乖離がかなり感じられるという感じです。
 ひきこもりの実態にかかわって、40歳以上の調査がぜひ必要だと考えております。それから、長期にひきこもる本人たちをいかに医療やその他の支援に結びつけていくかということについて、次に述べたいと思います。
 厚生労働省がひきこもり新ガイドラインを作成しておりまして、先ほど紹介した齊藤万比古先生が述べておりますが、池上正樹さんというジャーナリストが齊藤万比古先生のものを引用しているものを孫引きで紹介したいと思います。
 まず、ひきこもりには全ての障害概念のどれかが当てはまる可能性があると。精神障害のどれかが当てはまる可能性がある。2番目に、発達障害が4分の1を占めてしまっていると。これは平成22年の調査後に話をしていますが、発達障害はひきこもりにとても縁が深いと。ここに注目しています。
 次に、狭い意味でのひきこもりの3つの分類と治療について説明しておりますが、まず第1グループの統合失調症、気分障害、不安障害などは薬物などの医療的治療が優先されるべきであると。これを長期に放置していますと深刻になっていくということが言われております。第2グループは、発達障害の診断名がつくひきこもり者です。精神的療法や教育的な支援が必要と。薬物はここでは出ていませんが、次に第3グループは、パーソナリティー障害、薬の効かない不安障害、身体表現性障害、同一性の問題などによるひきこもりの場合は、精神療法やカウンセリングが中心になると。このように齊藤万比古先生がひきこもりの人たちはほとんど何らかの障害に該当する可能性があると言っておりまして、さらに深刻なものから軽いものに分類を行って、どういう治療、支援が必要かということをおっしゃっているわけです。それから、この先生は自宅訪問という形での支援の仕方がありますが、この場合はタイミングが大事だと。支援の場まで出てこられるようになることを支援すると。そういう限定的な方法と考えるべきだとおっしゃっています。
 参考までに、中部の親の会について紹介しておきますが、2003年1月からスタートしました。私自身がひきこもりの子供を抱えているということもありましたので、学校カウンセラーをやっている長山先生とも相談をして、最初は4名で立ち上げたのは2003年1月よりも二、三カ月前でしたけれども、正式にスタートしたのは2003年1月となっております。毎月1回、日曜日を会合の日に設定しました。私たちの会はとても恵まれておりまして、2003年2月―スタートとして2カ月目から2008年の8月までの5年半ほど、那覇でクリニックを営んでおられます精神科医の上地弘一先生がほぼ毎月見えてアドバイスをしてくれました。一緒に世話をしてくれ学校カウンセラーの長山先生とは今日まで一緒にやっております。それから保育園の園長をなさっている友寄さんが発足から今日まで支援してくれております。
 私たちは会合の場所として宜野湾市保健相談センター、中部保健所、沖縄市社会福祉センターとこのように変遷をしてきております。親の会は出席したときだけ会費が300円となっておりまして、その費用は会場の使用料やクーラー代、茶菓子代に充てております。親の会の意義ですが、ひきこもりが長期化すると家族だけで耐えられなくなります。これは間違いありません。そこで同じ悩みを持つ親たちが他の家族の状況を参考にして安心できる、そういう会合であります。そして、親の精神的安定はひきこもっている本人の安定にもつながり効果があると私たちは捉えております。参加状況を言いますと、発足当初は十四、五名ほど毎月いましたが、最近は9名前後に落ちついてきております。記録の残っている2006年から2016年までの10年余りの間に1196人が参加しております。2003年のスタートからカウントができていれば、恐らく1500人は下らないと思います。相談に見えた方も100家族を優に超えていると思っています。ただ、参加者の中にはほんの一時的な一、二回といった不登校の子供を抱えている親がたまに見えられます。不登校の子供たちというのは小・中・高校含めて学校からいろいろ支援がありますので、そういう親御さんは間もなく来なくなります。長期的にひきこもっていて、しかも成人している事例が主な話の内容になりますので、驚かれるのか、随分かけ離れているという感じなのか、来なくなります。そしてまた何らかの形で解決されていっていると私たちは期待しております。
 次に、ひきこもりのきっかけですが、不登校から長期化してひきこもりになっていくという事例は大体よく聞くところであります。時期的には、小学校、中学校、高校、大学、就職後さまざまであります。それから、人間関係のストレスから不安を抱えて自己防衛する形でひきこもると。これが一般的な心理状況だと思いますが、対応もさまざまです。家族や特定の友人とは会話ができるケース、家族・親族づき合いはできるが同世代との交遊関係はないケース、家族のみと会話をするケース、父親を避け母親とは会話をするケース、両親も避ける―深刻になると両親とも顔を合わせたくないといいますか、合わせられないといいますか、会話も途切れてしまうと。
 私たちが医療との関係でこれまで感じてきたことですが、先ほど専門の先生がおっしゃっているように、私たちも6カ月を過ぎると、専門に診断をさせたほうがいいと思っています。家庭訪問などを行って支援をする方々もいますが、それは専門医につなぐということであると思っております。
 私たちの家族会が13年ぐらいたっている中で、成功した事例もありますし、失敗した事例もあります。就職に結びついていった事例はもう既に本格的な就職で安心ということで参加をしなくなった母親もおります。それから、就職をしているけれども、不安をまだ持っているという両親がまだ通っております。就職したと我々が確認しているのは2つぐらいです。来なくなるというのは何らかの解決があったかもしれませんし、解決ができないまま諦めているかもしれません。私たちも非常に困ったことに、来なくなった親御さんのところに電話をかけるときがなかなか難しく、そういうことはほとんどやっておりません。何らかの連絡というのはほとんどやりませんし、封書でも全くやりません。ひきこもり本人がこういう会合に行くことを非常に嫌がるという事例もかなりあるものですから、そういうことは遠慮しているということがあります。そういうことで、成功事例を我々が把握しているのは非常に少ないということです。失敗事例としては、みずから命を絶った若者が1人、母親をあやめた若者が1人おりました。この2件です。母親をあやめた若者は統合失調症の診断があった若者です。
 時間のようですので、私からは以上です。中間的支援の重要さ、居場所の重要さについてはお二人が知っておりますので、質疑の中で答えていただきたいと思います。

○狩俣信子委員長 参考人の説明は終わりました。
 これより参考人に対する質疑を行います。
 なお、質疑・答弁に当たっては、挙手により委員長の許可を得てから行い、重複することがないように簡潔にお願いいたします。
 質疑はありませんか。
 新垣新委員。

○新垣新委員 私も市議時代からこの問題に真剣に取り組んでいたつもりでいますが、見えない部分、重なっている部分がありましてお聞きしたいと思います。
 先ほど、25%は発達障害が多いという形で、自分が知る限りプラス50%は鬱病が重なっていないかと思っておりまして、社会自立ができないという部分をどのように捉えていますか。重なっているように見えて、これが読めない、見えないということが現実だと思っています。

○平良和之参考人 NPO法人夢WALKの平良と申します。浦添市でひきこもりを中心とした障害福祉サービスを行っております。今、お話いただいた件に関して、11月6日に国立障害者リハビリテーションセンターで研修を受けさせていただいて、その際にお話があったのが、最近では発達障害というものがもともとベースにありまして、どうしても対人交流の面で問題が生じて、それを重ねることで失敗体験がどんどんふえていくと。そうしますと、自尊心というものが崩れていきますので、そこからどうしても鬱に変更していくという統計がとられておりました。先ほど豊里参考人から、男性が60%、女性が30%ぐらいというお話がありましたが、女性の場合には発達障害に関しても18歳以降から変調が見られてということもわかり始めていて、診断を受けるときには精神障害としての診断が受けられてしまうというところから発達障害の発症率に関しても若干変動が出てきているのかという形です。

○新垣新委員 人間誰でも鬱になるものはみんな持っていると。実は、家族にそういった方が1人いて、このことに関しては相当勉強してきましたし、理解できるということが強くあります。確かに、子供のころから早期発見・早期療育、早期治療ということで、今、市町村の幼稚園、保育園では、これを未然に防ごうということで10年ぐらい前から導入していると。おっしゃるとおり、時代のニーズが届かなかった40代という問題がどうなのかということも―私も40代ですので、その時代を勘案した場合、私が見る限りやはり元気なときに残業や鬱とかが多いのではないかと。発達障害ももちろんくっつけあって、鬱の部分など。あともう一つが正直に申し上げますと―これは正直に申し上げないといけないと思います。これは県民の税金、将来的に国民の税金も必要だと思いますが、親のしつけというものが大事だと強く思っています。愛情を持ってきちんと学校に行こうと。子供が保育園のときから行きたくないなら行かなくていいという感じからひきこもりのスタートが始まるということで、ある専門的な教育関係者からも説明がありまして、やはり小さいころから学校に行きたくないなら保育園に行かさないとなりますと、そこから甘えが始まって、自分のわがままという固定観念が固定してしまうという教育機関の教えもありまして、そこら辺が見えない部分がありますが、そこら辺を少しお聞かせ願いたいと思います。

○東邦治参考人 私は北部で9年前からひきこもりの支援活動をしております東と申します。よろしくお願いします。
 今、委員から質疑がありましたように、確かにインテークという最初の面談のときに、そこで鬱なのか、発達障害なのか、それとも心因性のひきこもりなのかという形でインテークをしながら見立てをやります。今まではひきこもりというものは学童期から心因性、発達障害も含めて学校に行けなくなって、それからひきこもっていくというパターンが多かったのですが、最近多いのが専門学校を卒業後、社会へ出て、職場からドロップアウトしてひきこもってしまうという相談もたくさんあります。そういう方のインテークではやはり鬱症状が見られます。そういう症状の人たちはすぐに保健所につないでいます。ですので、確かに鬱の人たちもたくさんいます。
 極端な例ですが、DVやネグレクトで親権放棄のような感じの母親がいて、母子家庭なのですが、夜は仕事、そして昼間は寝ているという形でほとんど子供は見ていません。子供はどうするのかといいますと、やはり寂しいので寂しさを紛らわすために同じような境遇仲間と夜に遊ぶという形の家庭も結構あります。やはり、沖縄の社会的なバックボーンのダークな部分が見えてきます。いずれにしても、そういうケースもたくさんありますが、私が一番言いたいことは、ひきこもりが高齢化していて、いずれ先にお父さん、お母さんが亡くなるわけですがそうなったときに今後生じるであろう次代の人たちに親亡き後の彼らの最終的な生活をどうするのかといいますと、やはりセーフティーネットであります生活保護に結びつけるしかないわけです。そういう状況で、例えば県内に100名のひきこもり者が親亡き後にセーフティーネットの生活保護を申請すると。一人頭200万円弱を申請したとしますと、約2億円ぐらいの財源が必要になってきます。今、我々はその問題に取り組んで、社会につなげて、納税者にするのか、それとも生活保護にそのまま持っていくのかで大きな違いがあると思います。ですから、委員の皆様にはきょうを機会にこの問題をもっともっと社会的な問題として捉えてほしいと思います。これから40代以上のひきこもりの人たちの経済的な問題が絶対出てきますので、その辺も含めてきょうは発言をしたいと思いまして来ました。よろしくお願いします。

○新垣新委員 まずこの問題において、我々がサポートできるところは全力でやっていきますが、二者択一で生活保護になるのか、納税者になるのかということで、やはり納税者になって社会復帰してほしいということは切実な強い思いです。これが1点目。
 2点目に、本土の事例でも治したというNPOとか、そういった施設があるとか、例えばこういった形で協議会を設置します。しかし、先進地といいますか、自立できるように、納税者にできるようにする施設があるのか、こういった40代以上という高齢者の事例があるのか、それをお聞かせ願いたいと思います。

○東邦治参考人 あります。和歌山県が一番ひきこもりに関しては先進県でして、約15年ぐらい前に和歌山県のある市で市の中にひきこもり相談支援室というものをつくりまして、今で言いますひきこもりの相談支援センターみたいなものを先駆けてつくりまして、そこでやっているところを見学に行きました。そうしますと、ひきこもりの人たちの居場所があるわけです。そしてそこでコーヒーの焙煎をしたり、いろいろなことをやって、この方たちがいきなりアウトリーチを行って社会に参加していただいてすぐに就労できるかといいますと、絶対にできません。コミュニケーション能力も、自己肯定感も下がっていますので、それをいろいろな部分で支援していくために居場所というものが必要になってきます。そういう居場所で実際に心のケアも行って社会へ就職したというケースも見てきました。それが和歌山県だけではなく、大阪府にもありますし、最近はあちらこちらに出てきています。それをぜひ沖縄にもつくりたいということで我々もずっと働きかけていました。今実際、我々は手弁当で活動していますが、やはり手弁当では限界があります。ですからどうしても行政の皆さんも含めて活動資金のような援助をほしいということで、それも言いたかった部分になります。

○新垣新委員 最後に、このような形で支援して社会復帰できるように頑張ってください。これは借金してまでもやったほうがいいと思っております。なぜかといいますと、後で戻ってきますので。これを野放しにしますと、ずっと税収が入って来ない沖縄になってしまうので、そこも貧困対策と同様に真剣に考えていくべきだとつくづく思っております。頑張ってください。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 平良昭一委員。

○平良昭一委員 内閣府の調査が出てきていますが、先ほど東参考人がおっしゃるように沖縄独特の状況からそういう状況になっているということも―沖縄独特の状況というものもあるのでしょうか。

○東邦治参考人 この9年近く、他都道府県をかなり回りまして、いろいろな市場を見ながら勉強してきましたが、沖縄独特のひきこもりというのはあります。先ほども言いましたように、貧困が原因で、なおかつ母子家庭が多いと。東京都でも足立区や大阪府などにも特殊なケースの部分はありますが、沖縄県もそういうカテゴリーに入りまして、貧困がベースで不登校になっていくというケースも多々見てきました。子供の貧困問題で県も含めていろいろやっていますが、その中で不登校も含めてひきこもりのカテゴリーが置き去りになっているのではないかと。不登校、ひきこもりの中には貧困ではない子供たちもいるものですから、どうしても置き去りになっているような感じがします。不登校、ひきこもりの中には貧困の家庭がいて、貧困が原因で不登校やひきこもりになっているというケースもありますので、ぜひそれもノミネートしてスポットを当ててもらいたいと思います。

○平良昭一委員 沖縄は特に貧困が原因だということですが、内閣府の調査では暮らしの中以上が75%もあるということで、沖縄の経済状況がそれを生み出しているということも実際あると思います。それも今言いますように、このひきこもりも一つの問題点として経済とつなげていくということが今後とても重要になってくるだろうと思います。そういう面では置き去りにしてはいけないということを意識していかないといけないと思います。
 私の周りにも結構そういう方々がいらっしゃいますが、いつも言われることが、高校を卒業して本土へ就職して、しばらくして少しおかしくなって戻ってくると。それでひきこもっているという方がかなりの数います。そうであれば、これまでの沖縄の教育、職場に入ってからの何らかの本土での食い違い等がありまして、人間関係的にだめになって帰ってくるというケースがかなりあるのかと思ったりしますが、その辺の県内の統計や皆さんがそれも原因かということもおありなのでしょうか。

○平良和之参考人 実は、今、お話のありました内地での季節労働等々での状態の変化というのは、ひきこもった方たちだけではなく、実は精神疾患を持たれている方が大半で、その方たちの背景がどのような形なのかといいますと、学生時分にちょっとしたいじめがあったり、うまく人と交流ができなかったということで、高校卒業後、本土へ移行すると。沖縄での交流というものが難しい中で本土での人との交流ということになるので、またさらにそこで苦しくなって、最終的に親族の方であったり、親御さんが連絡をいただいて、沖縄に帰るという事例は多々あります。

○平良昭一委員 そうなりますと、幼少のころから小学校、中学校、高校ということでの人間関係―例えばいじめとかがありまして、それから逃げるように本土へ就職をしに行くわけですよね。そこでさらなる追い打ちをかけられるような状況がつくられてしまって、仕事にも行かない、ずっと家の中にいて家族が心配して戻してくるというような形につながっていると思います。そうであれば、学校教育の中でもそういった点を踏まえながら、発達障害の件も今ははっきりしてきたわけですが、それを含めながらの学校教育というものも大事になってくるのかと思いますが、いかがですか。

○平良和之参考人 まさにそうです。小さいころからの教育であったり、家庭環境で地域とのかかわりというものがありまして、それがうまく成熟していくことで―私たちのところでよく言われていますが、自分らしさ、自己肯定感というものをその中でつくっていくと。そうすると、外に出たときにもほかの方たちと話をする中でも、自分は自分、人は人という割り切りができてくると。そういった中でのかかわりというものを進めていくことができれば、こういった精神疾患の発症であったり、ひきこもる現状というのは改善されていくのかと考えております。

○平良昭一委員 先ほど、6カ月を超えると専門医に任せたほうがいいというようなことでしたが、地域の中でこういう子供たち―40代以上も含めて、やはり一生懸命に出そうと努力はします。呼びかけたり、もともと幼いころから知っている方々であるわけですので。ただそのときに注意すべきことは「頑張れよ」とは言わないでくださいといった指導もされるわけです。ですから、そういう方々に対してサポートするような状況の中で民間の方々が6カ月以上過ぎた後にやれるような方法はないのかと。こういう言葉はかけてはいけませんということをよく聞かされているものですから、その辺はどうでしょうか。

○東邦治参考人 今、言われましたように、ひきこもり、不登校を含めてパターン化できません。100名いたら百人百様で、それぞれの支援の方法もみんな違ってきますし、ひきこもり、不登校になったバックボーンもそれぞれ違ってきます。これといったマニュアルはありませんが、ただ一つ言えることは、先ほどからも言っておりますように自己肯定感をつけさせるということです。例えば、私は別に専門的な資格を持っているわけではありませんが、普通のおじさんがそばに寄りそう形で―彼らにはタブーキーワードというものがありますが、言ってはいけない言葉といいますと、同級生の話、年齢の話、成人式など季節のイベントの話、就職の話などはタブーとなります。何がいいかといいますと、やはり現状を受容してそばで寄り添いながらこういうことをやってみたらどうかとか、私がよく使う手は、ボウリングとか―ボウリングはほとんど行きませんが、釣りに連れて行ったりとかで引き出していきますが、それは100名中1人の手法であって、いろいろな手法があると思いますが、ただ言えることは相手の気持ちを思いやって、困っている若者がいるのだという大人の感覚で寄り添って支援をしていけば何とかできるのではないかという部分はアドバイスできると思います。

○平良昭一委員 40歳以上の方々の統計がとられていないということで、とても驚いています。まだ若いときであれば、お父さんもお母さんも年齢的に対応できると思いますが、40歳以上、50歳以上になりますと、お父さんもお母さんも亡くなってくるケースがあると。やはり、40歳以上の統計をとって何らかの対策をみんなで考えていく、国レベルの中で考えていかないといけないと思います。沖縄独自でもそういう調査ができているのであればいいなと思いますし、今後、統計をとって対応策を考えていくことが必要になってくると思いますが、その辺を今後どうしていきますか。

○豊里友治参考人 40歳以上というのは即戦力ではなくなるのでということもあるかもしれませんが、やはり人生長いですので、親は40歳を超えても期待はしますし、何らかの形で社会復帰を果たしてもらいたいと考えるわけです。これまで知識として我々も持っていなかったことがひきこもりにかかわってどんどん出てくるわけです。そして、それに伴う治療法もあると思いますので、ぜひそこは40歳以上の調査も、これまでなかなか行き届かなかった対応もぜひ進めていただきたいと思います。内閣府の調査に40歳以上がないということに関しては、厚生労働省にそれを期待しているようなところが感じられます。厚生労働省はどうなのかということが私たちは気になります。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 西銘純恵委員。

○西銘純恵委員 私の身近にも40歳、50歳の息子がひきこもりで母親がひとり親というケースが何件かあります。百人百様という話をされて、5年前と比較して減ったと言われましたが、このひきこもりというのはいつから顕在化してといいますか、年度的に内閣府にしても、厚生労働省にしても調査の経緯といいますか、数字的なものとか、そういうものはどうなっていますか。調査を始めたのは子ども・若者育成支援推進法―子若法という法律ができてからなのか、39歳までという年齢などいろいろあるので実態はどうなのかと。

○東邦治参考人 平成23年に子若法が施行されまして、その以前からひきこもりの問題はありましたが、どうしても不登校、ひきこもりは子供の怠けだとか、親のしつけが悪いといった家庭の個人的なレベルの事情という形でなかなか表に出てこなかったわけです。ただ、平成23年度の子若法から統計もとられてきていますが、実質まだまだ日は浅いということです。

○西銘純恵委員 統計をとってすぐに60万人とか、50万人といった数字が日本では出ました。カウンセリングなどが進んでいるのはほかの国かと思いますが、諸外国のひきこもり問題が日本と比べてどのような状況かというのは情報としてつかんでいらっしゃいますか。

○平良和之参考人 以前、ひきこもりというのは日本独自の文化であるなどといった形で聞いたことがありますが、先日、研修でお話を聞かせていただいたときには講義をなさった方がスウェーデンの方でしたが、やはり世界的にも問題になりつつあるということでおっしゃっていました。その部分というのはやはり発達障害であったり、家庭環境であったりというさまざまなものがあってのものであるということでお話はしておりました。私の手元ではそれ以上の情報はありません。

○西銘純恵委員 やはり沖縄独特のということで貧困ということは言われましたし、労働環境などそういうところで、今言いました発達障害や精神障害、鬱ということが今の社会の中で大きく出ているのかと思います。それでお尋ねしたいことは、感じたときに6カ月ぐらいで専門医にきちんと診せて診断を行ったら、それなりに早く手だてがとれて、長期的なひきこもりにはならないだろうとおっしゃいましたが、例えば沖縄県内でそういう専門医なり、早期に診断をするという状況にあるのか、そういう医療的なといいますか、専門的な部分をどのように捉えているのか。県立病院も沖縄県はありますので、そこら辺との関連で何か御意見はありますか。

○豊里友治参考人 私は孫を保育園に通わせている中でこれはどういうことなのかという行動がありまして、保育園の先生に相談をしました。そういう専門のところに連れて行って診せるということもやりました。保育園では定期的に回ってきてそっと観察をする方々がおりまして、少し変わってはいますねという感じでありましたが、成長に伴ってそれが感じられなくなっていくと。我々が取り越し苦労だったのかと思いながらも時々よみがえってくるのです。どこかおかしいのではないかと。このように、今は保育園でも市の派遣する方々が観察に回るということは行われております。

○西銘純恵委員 行政の取り組みとして気になる子という発達障害の早期発見やそれを支援に向けて行くという、今おっしゃったように小さい子供たちは一定前進しています。その後の本土から帰ってきたとか、一定の年齢の皆さんが家へ戻ってきて大変だな、医者に連れて行きたいというときに、沖縄県内でそういう体制をつくらないといけないということを感じています。診断を行って、時々支援をしていく―居場所づくりという要求も書いていますので、そこら辺に少しということが早いうちにできたら一定程度重症化しない部分もあるのかと感じていますので、2番目の要求の地域ごとに居場所を設置するということについて、具体的にイメージが行政や県政に対してありますか。

○東邦治参考人 本土のあちらこちらの居場所をいろいろ見て回って、つい最近は埼玉県の青砥恭先生のサポートセンターに行ってきましたが、そこの居場所には200名ぐらいのひきこもりや発達障害の人たちが来ています。居場所を設置するに当たり、まずは居場所の物件が必要ですが、埼玉のサポートセンターには支援をする専従スタッフ、そして大学生のボランティア、一般市民のボランティアがおりました。そのあたりは沖縄県が取り組もうと思えば十分にできると思います。そして最終的に、例えば那覇市につくったとして、不登校、ひきこもりは那覇市だけではなく、北部地域にも、中部地域にもおります。果ては八重山地域、宮古地域にもいます。それはサテライトという形でやっていけば十分居場所はつくれるのではないかと思います。引き続き言いたいことは、居場所に来るひきこもりはいいです。居場所に来れないひきこもりというのがたくさんいるわけです。私たちが一番悩んでいることは、ファーストコンタクトをとれないひきこもりをどうすればいいのかということを行政の皆さんにもきちんと考えてほしいと思います。行政の皆さんは、今、ファーストコンタクトではなく、例えばサポートステーションもそうですが、ひきこもりから相談に来る人たちを対象にしていますが、それさえもできないひきこもりというのはたくさんいるわけです。そういうひきこもりたちを放っておくのか、それではいけないと思います。そういう人たちをアウトリーチして―30年以上ひきこもった50代の女性を支援したことがありますが、彼女は言葉が小学生の言葉なのです。ということは、彼女の中では時間が小学生でとまっているわけです。この人たちを支援して社会に出して就職をさせることができるわけありません。何からするかといいますと、コミュニケーションの仕方を支援していくという形から入って行くわけです。ですから、そういう意味では表に出てこないひきこもりの人たちの支援もぜひ考えてほしいと思います。

○西銘純恵委員 40歳以上も含めた実態調査を政府に任せてできるかということで、実際は既にそういう年齢の皆さんが沖縄県内にも相当いらっしゃるということで、具体的に県に調査を実施してもらうということになったときに、実際に調査に行くのは市町村の皆さんということになると思いますが、調査をされたところがほかのところであるのか、なければ実態調査の方法等も含めて何かイメージを持っていらっしゃいますか。

○豊里友治参考人 地域の民生委員といった方々の情報収集などはどうなっているのだろうということを感じます。大体、そういう方々は結構把握しているとは言われておりますが、私は地域にいてそういうことを実感したことはありません。息子がある意味ひきこもり状態になって20年以上はなるわけですが、そういう調査を目的に訪ねてきた人というのはおりませんで、間接的な情報を集約しているのかどうか、それはわかりません。また、こういう身になりますと、どこどこの子供もひきこもっているらしいという情報は入ってきます。ですから、かなりいるとは思いますが、行政として把握というのはまだまだではないかと、これは私の見方です。

○西銘純恵委員 調査をしてほしいという具体的な要望がありますので、そこについてはおっしゃるように、民生委員・児童委員の皆さんはそういう情報をつかんでいる職務にあるとは思いますが、いろいろな形で実態調査が早くできるようにということで、私もそのような考えでいきたいと思います。きょうはありがとうございます。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 亀濱玲子委員。

○亀濱玲子委員 何点か質疑をさせていただきたいのですが、この陳情書の記の1、2、3、いわゆる実態調査と地域の居場所、あるいは連絡協議会の設置はどれも必要だと思いますが、まず3点目の親の会、支援者、行政の担当者による連絡協議会の設置というのは全くなされていないのか、現状はどういう状況にあるのか教えてください。

○豊里友治参考人 私たちが行政のそういう部署と恒常的につき合うといいますか、連携をとるということはありませんでした。南風原町にあります県の総合精神保健福祉センターには何度か会合で呼ばれたことはありますが、日常的な連携ではないということです。

○亀濱玲子委員 では、内容的には41市町村それぞれの行政と地域の当事者、親の会、あるいはそういう組織がイメージとしては必要だということで捉えてよろしいですか。

○豊里友治参考人 そのように考えております。やはり、私たちとしては40歳を超えたら調査対象外になるということも問題ですし、それ以下の年齢であってもほとんど把握されていないのではないかと実感として持っております。ですから、行政がどういうところでこれを見ているのか、どのような視点で見ているのかというのは少しわかりません。私たちは親の会として会合を中部保健所で数年重ねておりましたけれども、一、二度かかわりのある部署の方が来られたのですが、それ以外のかかわりはほとんどなく、場所だけを提供していただいていました。しかし、そのうちにこういう会合はこれから遠慮してくださいということで、我々の会だけではなく、断酒会―アルコール依存症の方のための会や不登校の子供たちを抱えている親たちの会も中部保健所からみんな出されました。要するに、そういうレベルでしかものを見ていないということをあのとき感じました。

○亀濱玲子委員 実は私も精神疾患の方々とかかわっていて、宮古島市で小規模作業所を立ち上げたり、あるいは居場所―ふれあいプラザ宮古と平良プラザといいまして、それが現在も運営されていますが、それは主に精神疾患の方々が対象です。今、ひきこもりというくくりを考えたときに、最初の見立てが精神疾患に由来するのか、あるいは発達障害がベースにあるのか、もっと違う一旦社会に出ようとしたけれども、適応がうまくいかなくて心因性の原因で可能性は十分持っているけれども、ひきこもった状態に現在あるのかという見立て、それぞれをきちんと分けて専門の先生が必要な部分は専門に、病気なら病気の治療にというようにつなげていかないと一くくりにひきこもりと考えても難しいと思います。病気かといいますと、病気だけでは捉えられないと思いますので、そこのきちんとしたすみ分けのようなものがきちんとできる、つまり支援の場に行けるような支援というのが一番最初に今この中でできなければいけない内容かと思っています。ですから、自治体がどのようにかかわっているのですかということを伺わせていただきましたが、その場所に行くための体制として親の会の居場所、そして行政の居場所ときちんと一緒になる場所がないとこの問題というのは交通整理ができないのだということがきょうのお話で少しわかりましたので、県のやるべき役割と自治体がやるべき役割みたいなことがもう少しきちんとされないといけないのかと思います。その中で一つですが、社会に出られる可能性―カウンセリングをする、いろいろつき合うと。そういうときに職親、協力してくれる職場というものを親の会では見つけていますか。そういう働きかけというのはしていますか。

○東邦治参考人 今、委員から言われたように、絶対的にトライアルワークができるような職場は絶対必要だと思いますが、先ほども言いましたように、最初の見立てで発達障害や統合失調症、心因性の方などいろいろなパターンがありますが、私の場合は最初の見立てでこれは絶対医療関係だと思えばどんどん保健所につないだりしていますし、心因性の部分はアウトリーチをしたりしていろいろやっておりますが、やはり中にはスキルが結構高い人もたくさんいらっしゃいます。そういう人たちを放っておくことは、どんどん若年労働者が減っていく日本でこういう人たちのスキルを―障害者も一緒ですが、その人たちの能力を生かす手はないのではないかと思いますので、そういう意味では支援をもっと手厚くしなければいけないのではないのかと思います。6カ月といいましたが、5年、10年とひきこもっていきますと、医療に結びつけなくてはいけないのではないかと思うぐらいの二次障害が大体生まれます。対人恐怖、視線恐怖、醜形妄想、強迫性神経障害など、私がかかわった中ではみんないましたが、中には一日中手を洗って、手の皮が破れて泣きながらも手を洗っている子もいました。ただ、この子は支援をして、居場所へ行って、ケアをしていったらぴたっとそれがなくなりました。ですから、一概にそれが病気とは言えないので、やはり最初の初動の見立ては非常に難しいのですが、それは大事だと思います。

○亀濱玲子委員 どういう支援につなげるかによって、先ほど親御さんをあやめた方の話も出ましたよね。やはり、治療が必要な若者が、例えば被害妄想が大きかったかもしれない、幻聴が聞こえたかもしれないのに、その治療ができないことによって身内をあやめてしまうということがないようにしなければいけないので、この方には何の支援が必要かということがとても大事だと思います。ですから、親の会や行政がかかわったり、専門家がかかわる組織が必要といいますか、場所が構築されないと支援者がすごく努力をしても治療につながらないとか、支援につながらないということがあるのではないかと思います。
 もう一つ、40代以降の親亡き後の支援を具体的に形にした事例はありますか。

○平良和之参考人 本土にあります。先ほど言いましたように、和歌山県のかつらぎ町でもありまして聞いたことがありますが、県内では聞いたことはありません。実際、私もいろいろ支援をしておりまして、40代の方もいらっしゃいますが、40代になりますと、親もそうですし、本人もそうなのですが、半ば人生を諦めているような感じがします。両親―特に母親にいつも言っていることは、親が諦めたらだめですよということを言っています。ですから、親が諦めずにずっと何とかしようと動けば、40代後半でも十分社会に出るということは本土でもありましたので、十分大丈夫だと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 金城泰邦委員。

○金城泰邦委員 これまでの質疑等を伺いまして、ひきこもりに入ってしまった方の中で40歳を超えてしまったような方々、特にディープな事例といいますか、部屋から一切出てこないような人に対して―先ほどファーストコンタクトの話もありましたように、どのような支援があればそれが改善できるといいますか、現場の経験からしてこういった支援が必要だというものはありますか。

○東邦治参考人 私たち支援者が一番困っていることがそこなのです。20年ずっとお父さん、お母さんの顔も見ずに家にいるということで、一方通行のはがきを送ったり、手紙を送ったりはしていますが、なかなかファーストコンタクトがとれないので、その辺が支援方法として一番難しいです。一旦つながった不登校、ひきこもりは割と簡単にスムーズに次にいったりできますが、最初のファーストコンタクトが非常に難しいと実際に支援員をやっている中でそのように感じています。

○平良和之参考人 東参考人からお話がありましたように、どうしても信頼関係がとれるまでがとても難しいと思います。そこからはお互いの認識がありますので、ちょっとした買い物であったり、外に出るということは徐々に可能になっていくのかと思いますが、やはり信頼関係がとれるまでというのはこちら側も足しげく通うということがどうしても必要になりますし、先ほど少しお話のありました医療・福祉につながっていないとなったときにその制度が使えないという空白の部分をこちら側が支援をする上でマンパワーが足りなかったり、後は時間がとれなかったりといった諸問題というのはその部分に山積しているのかと感じてはおります。

○金城泰邦委員 そういった形でなかなか外に出れない子供を抱えている親御さん、大きな大人になっていると思いますが、そういった方々への支援につなげなければいけないのですが、なかなか現状はつながらないと。やはりこれまでのかかわりから感じるものも―行政としてはどうしても申請主義的な業態がありますので、当事者の皆さんが実態把握を求めている思いとか、支援を求めている思いとか、そういったことが行政の業務として結びつきにくいところがあると思っていまして、そこの間をどのように入れば行政の支援、サービスと当事者がつなげられるのかと思っています。今のひきこもりというのは先が見えないといいますか、保護者もお手上げになっているようなところがあると思っていまして、今後、調査も必要ですし、居場所づくりも必要ですし、そこに当たって具体的に当事者としてこういった部分にもっと手を入れてほしいというところについてアドバイスなどをいただければこちらもイメージしやすいと思いますが……。

○豊里友治参考人 私たちと一緒に中部でやっていて学校カウンセラーをやっている方がひきこもりの体験者、継続している若者たちに対応したことがあります。長山先生という方ですが、この方が4年余りかかわっておりまして、恐らく例外はなかったと思いますが、ほとんどの参加者が薬を飲みながら生活をしています。それを見てやはり深刻だと思いましたが、長山先生に言わせるとこれは普通だと。こういう子供たちがこのようにしてしか出てこれないのだということがありました。それでも出てこれる者はまだいいほうで、出てこれない者がもっと深刻という話でした。ひきこもりの当事者グループみたいな位置づけでしたが、かなり難しい、一緒に同席をしていても難しいということを長山先生はおっしゃっていましたけれども、それは月1回の会合でした。今回の陳情書の中で居場所というものがもっと恒常的に設置されて、かかわれる方もサポートをする方もいるような状態を望んでいますが、そういうものをぜひつくっていただければと思っています。

○東邦治参考人 今、居場所の話をしていますが、100名いたら百人百様で、支援者もいろいろな人が必要なので、支援者養成は絶対必要だと思います。その辺を行政にそういうものをつくっていただいて、支援者と行政と居場所というのは車の両輪と一緒で、どちらかが欠けても動かないと思います。幾ら支援者がたくさんいても次なる居場所がなければ、この人たちはまたひきこもってしまうわけです。私の場合、たまたま障害者の事業所をやっているので、そこにひきこもっている青年たちを連れてきて、この人たちは非常に傷ついていますので、そういう障害を持っている弱い立場の人たちに非常に思いやりがありまして、親和性がとても高いのです。ですから、そこは回復に向けるためには非常にいい場所だと思いまして、そこをひきこもりの青年たちの居場所ということでやっております。しかし、これはあくまでも一時的な手法であって、本来は本当のひきこもりの人たちの居場所が必要ではないかと思います。

○平良和之参考人 先ほど、お二人からお話がありましたが、本人たちが出てきて居場所というところになったときに、先ほどおっしゃった発達障害であったり、精神障害を持たれている方に関してはサービスも充実しています。ただ、そういう診断のつかない方たちであったり、居場所に来るまでに至る空白というものがどうしてもあいてしまうと。その部分というのが実は先ほどおっしゃったように、支援をする側がきちんと御自宅に向かって、そこを繰り返しながら御本人たちを外の世界に出していくというところになってくるので、やはり支援者養成の部分とアウトリーチ―訪問支援の部分というものが今後どうしても必要になってくるのかと感じています。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 次呂久成崇委員。

○次呂久成崇委員 先ほども少しありましたが、例えば親の会のように困っている方がみんな集まってできればいいのですが、やはり各自治体においてもどこにまず相談をしていいかということが恐らくわからないのかと思いますので、今、41市町村の中で独自で相談窓口などを設置しているところの把握というのはされていますか。

○東邦治参考人 ありません。沖縄県ひきこもり専門支援センターを県が総合精神保健福祉センターに設置したということは―実は、日本全国で設置されていないところが7県ありまして、やっと沖縄に先日設置したということで、全然おくれています。県がそういう状況で設置しているので、ましてや市町村ではまだまだだと思います。それまで出せないので。それと並行して、長年ひきこもっている中で神経症を発症して、親から見るとひょっとしたら精神障害ではないかと思うぐらいの症状も、二次障害も、神経症を発症するわけです。やはり、そういう症状に対して親も対処できないわけです。対処できずに、また親も世間体がありまして呪縛に陥ってしまって、親子ともども―特に母子家庭もそうですが、親子ともども社会からひきこもっている状況が私の支援している中では結構ありました。先の見えない、本当にエンドレスの機能不全家族という状態になって、社会から孤立している家庭も多々ありまして、この人たちが相談支援窓口をつくっても手を挙げてくるということは難しいはずなのです。ですから、トータルで掘り起こしを考えないといけないのではないかと思います。ただ窓口をつくればオーケーとはいかないと思います。それぐらいひきこもり問題というのは根が深いと思います。

○次呂久成崇委員 従来ですと、不登校から成長に伴ってそのままひきこもりになってしまうと。不登校の場合、行くまでに教育機関であったり、児童相談所、また地元にもあります要保護児童対策地域協議会―要対協とか、そういうところで支援をどうしていくかというのがありまして、比較的ひきこもりの対策には結びつきやすいのかと思いますが、今現在ふえているという一旦社会に出て、それからひきこもりになるケースというのは、やはり現状がつかみにくいということですよね。それに対してどのようにそれを把握していくかというところで各地域のかかわる人をどうふやしていくかと。民生委員の活用もそうですが、そういうことをしっかりやっていかないといけないと思いますので、これを県が中心となって各自治体にこのような体制づくりをどうしていくかということで先頭に立ってやっていく必要があるかと思います。県にはそのような専門的に取り組んでいくという機関といいますか、そういうものの設置というのは必要だと私も思いますが、それをまた市町村に広げていくと。そのような取り組みといいますか、これが沖縄県では物すごくおくれています。ほかの県もいろいろ見られてきたと思いますので、これがうまくいっているのが和歌山県ということでよろしいですか。

○東邦治参考人 和歌山県は先進県で非常に進んでいます。ただ、沖縄県もせんだって県の総合精神保健福祉センターにひきこもりの相談窓口をつくりましたので、おくればせながら進んでいると思いますが、ただ、いかんせん相談窓口をつくっても職員が3名なのです。3名で沖縄県をカバーできるわけがありません。例えば、発達障害でしたら発達障害者支援センター連絡協議会を県が主体となってつくっております。ですから、ぜひひきこもりの連絡協議会などをつくって、やはり必要なことは情報だと思います。ネットワークをつくって情報をみんなで共有して、みんなでつくっていくという方法をとれば先進県になるのではないかと思いますので、よろしくお願いします。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。

   (「質疑なし」と呼ぶ者あり)

○狩俣信子委員長 質疑なしと認めます。
 以上で、豊里友治参考人等に対する質疑を終結いたします。
 この際、参考人各位に対し、委員会を代表して、一言お礼を申し上げます。
 本日はお忙しい中にもかかわらず、長時間にわたり貴重な御説明をいただき心から感謝いたします。
 本日拝聴いたしました内容等につきましては、今後の委員会審査に十分生かしてまいりたいと思います。
 豊里友治参考人、東邦治参考人及び平良和之参考人、ありがとうございました。
 休憩いたします。

   (休憩中に、参考人等退室)

   午前11時40分 休憩
   午後1時13分 再開

○狩俣信子委員長 再開いたします。
 午前に引き続き、参考人からの意見聴取を行います。
 次に、NPO法人沖縄恨之碑の会事務局員沖本富貴子氏から説明を求めます。
 お手元にあります事務局配付資料の資料1をごらんください。
 沖本富貴子参考人から上間芳子氏を補助者として出席させ、必要に応じて発言させたいとの申し出がありますので、委員長として同席を許可したことを御報告いたします。
 参考人及び補助者の皆様、本日は御多忙のところ御出席いただきましてまことにありがとうございます。
 参考人等から説明を求める前に、委員会の審査の進め方について御説明申し上げます。
 まず、参考人等から御説明をいただいた後、委員から参考人等に対し質疑を行うことにしております。
 なお、参考人等が発言しようとするときは、あらかじめ委員長の許可を得なければならず、発言は、陳情の趣旨の範囲内で行うこととなっております。
 また、本日は委員会が参考人等の説明を聞く場でありますので、参考人等が委員に対して質疑することはできませんので、御承知おきください。
 それでは、沖本富貴子参考人から、陳情第110号「平和の礎」への朝鮮人犠牲者刻銘に関する陳情の提出に至る背景及び目的等について簡潔に御説明をお願いいたします。

○沖本富貴子参考人 最初に、この機会を設けていただきましたことを大変皆様に御礼を申し上げたいと思います。きょうはよろしくお願いいたします。
 最初に、この陳情を提出するに至った経過について説明したいと思います。
 刻銘を希望されている方は現在お二人いらっしゃいます。1人はクォン・スチョンさんという方で、こちらは現在78歳であります。クォンさんのお父さんが戦争に連れて行かれたときのお父さんの年齢は28歳ぐらいだったようです。この方はお父さんの遺骨を探しに沖縄にこれまでも何回か訪れたことがあったようですが、2013年に沖縄県庁を訪問されて、そのときにDNA鑑定と平和の礎をごらんになって、お父さんの名前をぜひ刻銘してもらいたいと沖縄県に申し出ました。そのときに申請書類をいただいて、韓国で書類を作成しようとしたところ、お父さんの戸籍が沖縄で亡くなったとはなっていなくて、韓国国内で死亡したという形の戸籍だったそうです。それで申請ができない状態になっていました。
 それからもう一方はパク・チュナさんで、この方は女性で、現在72歳であります。お父さんはそのときに25歳前後でありました。お父さんが戦争に行ったとき、チュナさんはまだお母さんのおなかの中にいまして、一度もお父さんの顔を見ていないそうです。去年、韓国人慰霊の塔での慰霊祭のときに訪問されまして、平和の礎をごらんになって刻銘をしたいとお考えになりました。ところが、やはりこの方もお父さんの戸籍が韓国国内で亡くなったとなっているがために、書類がそろわない状態になっていました。私たちがそのことについて沖縄県に何とかできないかということを言いに行きましたが、その前にお二人のお父さんが沖縄で亡くなったということを私たちが確信するに至った理由というものを御説明したいと思います。
 皆さんにお配りしている絵の描いてある資料の1ページ目ですが、これはクォン・スチョンさんがお父さんのクォン・ウンソンさんのことについてどうなったのかを元同僚の方たちをずっと探し歩いてやっと得た話だそうですが、下から7行目の最後の部分、「軍隊式で列をつくって列を並べて、その列で人々を分けて洞窟の中に配置したが、父が立っていた列が洞窟に入ると、すぐの洞窟が爆破されたと、かれ(私の父)はその時点で死んだのだと言いました。事故が起こったのか、砲弾が落ちたのかは正確ではありません。」ということでお話をこの方は聞いていたわけです。
 それからもう一人、パク・チュナさんのお父さん、パク・フィテさんですが、この方については同じ資料の7ページ目、本文の上から9行目、「母の話では、1年間いて食べるものがなくて民家におりて行ってサツマイモを盗み食いしたところ、これを発見した日本軍がその場で首を切ってそれで亡くなったということだそうです。」同じ村から8名連れて行かれて、4人の方が生きて帰って来たが、半分の方が戻ってきませんでした。お母さんは戻ってきた方から話を聞いてこのように記録されています。
 それから沖縄戦に来たということがさらにはっきりしたことは、資料の5ページ―もう一つの資料、沖縄県議会文教厚生委員会と書かれている陳情書が添付されている資料で、一番後ろのページは資料4となっていますが、その前の部分で厚生労働省からのものですが、わかりますか。クォン・スチョン宛てのこういったものです。厚生労働省社会・援護局業務課長から在籍の記録ということで、クォン・スチョンさんに対して、クォン・ウンソンさんは履歴事項という項目にありますが、特設水上勤務第104中隊に編入と書かれています。この部隊は32軍の直轄部隊で朝鮮人部隊でした。ここにきちんと編入されているという証明がなされています。ここで注目していただきたいことは、供託状況という項目の一番下ですが、供託の種類で未収金給与金―いわゆる給料の未支払い分があるということで、その上の行の995円が本人にまだ払われていない、法務局に供託されているというところまではっきりと厚生労働省が出してきました。
 そして、これと同じようにパク・フィテさんの場合―つづり全体の中の前のページ、後ろから3枚目つづりの上側、やはり似たような厚生労働省からのパク・チュナ―朴春花さんと書いてある資料になります。これも厚生労働省社会・援護局業務課長からありまして、所属部隊が特設水上勤務第104中隊に編入されたと。そして、未収金給与金がこの方の場合1450円ありまして、法務局に供託されたまままだ本人の手に渡っていないという資料があります。
 このように、このお二人が沖縄戦で確実に亡くなったということは、こういった資料からもほぼわかるのではないかと思います。しかし、沖縄県の場合は、あくまでも戸籍等々、沖縄戦で戦死したという公的な書類がない限りは申請を受け付けられないという回答でした。それでこれではどうにもならないということで、私たちとしては陳情を出そうということになっていったわけです。
 私たちの基本的な立場というものは、沖縄県がこうした公的な資料にこだわる限りは、朝鮮人の刻銘という問題が一向に進まないのではないかという立場を持っています。そのことですが、実は、沖縄県が朝鮮人の刻銘作業を行うときに最初に使ったもとの資料というのは、厚生労働省のつくった死亡者名簿でした。それは1971年に日本から韓国政府に死亡者名簿を渡しまして、それは正確にいいますと、旧日本軍在籍朝鮮出身者死亡者連名簿というものです。海軍・陸軍の軍人・軍属の中で死亡した人の名簿となっていまして、これが1971年に韓国政府に渡りましたが、その書かれている人数は2万1700人でございます。全体で朝鮮半島から軍人・軍属は37万人というのが研究者の定説ですが、日本政府としては24万人分の名簿を韓国政府に渡しています。これは1991年から順次渡していて、日本政府は24万人、研究者の間では37万人と人数の開きはございますが、そうした中、日本政府が認めた死亡者という者は2万1700人ということです。
 沖縄県は2万1700人の中から沖縄で亡くなった方の分だけを抜き出したわけですが、この名簿は一般には全然公開されておりません。韓国政府が持っているということです。沖縄県は厚生労働省から名簿を見せていただいて、四百何人―この人数も沖縄県ははっきり公表していないのでわかりませんが、琉球放送でこのドキュメンタリーを放送したときには419人と言っておりました。また、研究者によれば450人ぐらいです。
 実は、私は個人的に沖縄県が平和の礎の刻銘のときに使った資料として、沖縄軍の資料を入手しました。これには409人分しかありませんが、1人ずつの名前が日本名ですが、どこそこで何日に亡くなったということが1人ずつメモされていまして、軍人・軍属・海軍・陸軍全部合わせて409人分のものを持っております。
 沖縄県はこの名簿に基づいて、コン・ジョンケルさんという大学教授に韓国へ行って1人ずつこの住所を尋ね歩いて刻銘を依頼して歩く作業を依頼しました。それが2003年度までにほぼ終えたそうです。この間の県との話の中ではあと30人ぐらい残っていますが、この人たちとは連絡がとれなくて、あと5人については対象外だったということで少し残っている程度でほぼこれに関しては終わったそうです。その後、沖縄県は韓国の新聞に刻銘をしているということで募集―募集というのも変ですが、こういうことをしているので該当者の方は申請してくださいといった新聞広告を2010年まで行ったそうです。それまでで今現在、刻銘されている人たちが447名ですが、2010年以降は全然それ以上はふえていない現状です。つまり、沖縄県としてはやるだけはやったと、この名簿が終わったのでそのように思っていまして、それ以降の策として新聞に掲載したと。しかし、それも終わったので、それ以降、現在は何もやっていないという状態でした。
 今回初めて、名簿に載っていないような人、戦死認定をされていないような人から申請があったために沖縄県としても大変驚かれたといいますか、初めての事例だったと思います。
 これがどれだけ不備であるかということを時間を少しとるかもしれませんが、お話申し上げたいと思います。
 絵の描いてある資料の8ページ、実はこれを自分たちは持っていますが、日本政府が韓国政府に渡した朝鮮人の名簿で、これは沖縄戦に動員された朝鮮人の名簿、約2800人ほどですが、これは沖縄戦に動員された人の全体の一部として2800人分ありますが、いわゆる朝鮮人部隊特設水上勤務隊の4中隊プラス幾つかの部隊が集まって2800人載っています。ここにコピーしたものは水上勤務隊―水勤隊の102中隊の名簿の表紙です。ここで注目していただきたいのは、メモ書きで大変薄いですが、昭和23年12月と書いてある横に手書きのようなメモ書きがありますよね。少し薄いのですがこれを読み上げますと、「軍人はほとんど玉砕、戦闘参加」と書いてあります。そしてその横が「軍部は不明なれど、ほとんど戦傷病死したと思われる」。また一番左側の上に、「大部分死亡か?」とかなり薄いのですがそのように書かれてあります。この部隊はそういう状態だったということがこの表紙からわかりますが、さらに次の9ページをごらんになってください。この部隊の名簿がこういう形で書かれておりますが、上段の欄外に3つぐらいメモ書きされています。これを読み上げますと―真ん中が読みやすいので読みますが、「昭和20年5月7日、戦死。東風平宜寿次」。それから左側にいきますと、「6月20日、戦死認定。島尻郡喜屋武村山城」という形で書かれています。この部隊のこういうメモ書きを集計しましたら、メモ書きは100人にされていまして、100人の死亡がこの部隊では確認されています。それと、名簿の一番下ですが、丸に不というゴム印が押されて、その隣に「死推」という印鑑が見えるかと思います。いわゆる死亡推定です。丸不というのは、状況ははっきりしない―ほとんどこの名簿は丸不になっていまして、死んだのか、生きたのか、帰られたのか、帰っていないのか、そういう状況は不明である―要するに、調べていないのでわからないということだろうと思いますが、ほとんど不という印鑑が押されています。そして、その横に死亡推定と―この部隊は702人の部隊ですが、そのうち660人に対しては死亡推定というような印鑑が押されています。
 この部隊について、先ほど沖縄県が依拠したという厚生労働省の死亡名簿に102中隊がどれぐらいいたのかということで調べますと、厚生労働省では11人しか載っていません。ですので、非常にこれが不備であるということはこれでもおわかりではないかと思います。お二人が所属したのは同じく104中隊で、ここは資料をコピーしていませんが、同じく上のメモ書きで死亡が68人とはっきり留守名簿に書かれています。しかし、厚生労働省のものではたったの5人しか名簿に載っていません。
 そういうことで、沖縄県があくまでもこれにこだわって平和の礎の作業を行った場合に、どうしてもこれに載っていない方たちは刻銘されていかないという仕組みになっていたということがこの間大変よくわかるようになりました。
 日本人に対して日本政府はどうしたかといいますと、未帰還者に対する特別措置法という法律をつくりまして、帰って来なかった人たちに対しては厚生大臣がその人に対して申請を出します。そうしますと、戦時死亡宣告がなされて、それによって初めて戦傷病者戦没者遺族等援護法とか、そういうものが亡くなったことに基づいて保障されていく仕組みがつくられました。ところが、朝鮮人の人たちに対しては、その法律は外国籍なので及ばないと。ですので、未帰還者に対する調査というものは法律的にもなされていませんし、実際に行われておらず、そのままほったらかされているというのが現状です。
 沖縄県に対しては今までも言ってきましたように、公的な書類というものにこだわらずに、弾力的に―沖縄に連れて行かれた、お父さんは帰ってこない、元同僚の人がきちんと証言もしている、これだけはっきりしているのでやはり弾力的な運用をして刻銘してもらいたいと一つはお願いしています。
 それから、沖縄県に対しては、これでほぼ終わったということではなく、沖縄県独自に死亡者の人たちを―私たち素人でも少しは資料を集められますし、県であればもっと公的な形やいろいろな形で研究ができるかと思いますので、できるだけ沖縄県独自で調査をされて、刻銘というものを続けていってほしいと思っています。
 最後になりますが、沖縄戦に連れてこられた朝鮮人の人たちというのは、日本軍に入っているのでいかにも韓国に帰った場合、日本に魂を売ったとか、日本に協力した、植民地時代に日本軍と一緒にやったということは日本軍に協力したというように、ややもすれば帰ってから偏見みたいな形のものがありまして、ただでさえ家族を亡くして帰って来なくて、気持ちがそういう状態なのに周りからそのような目でも見られる、家族も大変苦労してきました。そして肝心の本人たちも皇民化教育で日本の天皇のために頑張りなさい、自分の国を奪われてほかの国の戦争に駆り出されて、実際に来ると奴隷のような扱いを受けました。第三等国民ということで同じような―防衛隊の人も日本軍の人たちもやはり同じように戦争が始まる前にはごう掘りとか、運搬とか、いろいろなことをやっていました。ですが、朝鮮人の人たちに対してはいつも監視を置いて、何かあると容赦なく体罰を加えて一日中縛りつけるとか、あるいは食事は完全に日本軍の兵士よりもいつも水準が低い、量も少ない、その上水も自由に飲めない、水を自由に飲んだからといって一日中縛りつけられた人もいました。そうしたように沖縄の中で苦しんで、そして最後は地上戦が始まって戦闘に行かされてどこで亡くなったのか、遺骨が戻ったという話は今まで一度も聞いたことがありません。まだこの地のどこかにあるかもしれないですし、また収骨されてどこかにあるのかもしれません。しかし、この人たちは自分がここで亡くなったということが家族の人にただの一言も伝わっていないですし、誰も自分をみとってくれないと。とにかくこの人たちの受けた苦しみというのは本当に言葉ではあらわされないぐらい土の中でも相当苦しんで、今でも叫んでいるような感じを受けます。この人たちのこうした無念の死の苦しさをどうにか地上に出して、その叫びみたいなものを平和の礎に刻む。それが朝鮮人の人たちの平和の礎への刻銘作業ではないかと考えています。これがあってこそ、初めて沖縄県民が沖縄戦の悲惨さを世界にアピールして、平和を訴えることができるのではないか、朝鮮人の人たちを含めて刻銘されない限り、そういったものにはなっていかないのではないかということをこの場で強く訴えたいと思います。
 以上で、説明を終わります。

○狩俣信子委員長 休憩いたします。

   (休憩中に、沖本富貴子参考人から恨之碑の会について上間芳子補助者に説明させたいとの申し出があった。)

○狩俣信子委員長 再開いたします。
 上間芳子補助者。

○上間芳子補助者 沖縄恨之碑の会の事務局長をやっております上間と申します。
 皆さんのお手元に資料を配付したときに、このようなパンフレットがあったと思いますが、沖縄恨之碑の会というのは活動を始めてちょうど10年になります。読谷村に恨之碑が建てられておりますが、一番最初に建てられたのは韓国のヨンヤンというところにある恨之碑で、1999年にできています。沖縄戦に連れてこられた人の慰霊をしようということで、カン・インチャンさんという方が中心になって碑を建てました。それに呼応する形で沖縄でも軍婦の人たちを追悼したいということで恨之碑の建立する会をつくって活動をしてきまして、2006年に読谷村に恨之碑を建立することができました。
 まず、建立に当たり、どこにするかあちらこちら探したそうです。魂魄の塔の近くがいいのではないかといった声もあったようですが、読谷村で提供してくれる人がいまして、今、建てられております。
 恨之碑については、会員を中心に活動を続けておりますが、毎年、慰霊をしようということで追悼会を6月23日の慰霊の日―少し前後して、前に大体やっておりますが、10回目の追悼会をやっております。この場合には韓国からも遺族の人、あるいは支援者の人たちをお招きして追悼会に参加していただいております。同じようにヨンヤンと読谷村にありますブロンズ像は、金城実さんが彫刻してブロンズ像をつくっていますが、今でもなかなか理解されていないと。先ほど少し出ていましたが、恨之碑の「はん」とは恨むと書きます。恨むというのは、日本語では単なる怨恨という意味合いに捉えるので、読谷村に建てたときも最初は片仮名で書いたそうです。漢字の恨むという字は使わずに片仮名でハンとつけたと言いますが、ただ恨むだけではなく、悲哀とか、憤怒、後悔、悔恨という意味がありまして、最終的にはそのハンを解くというのが一応課題にはなっています。お互いに恨むということは個人にとってもとても苦しいことですので、どうやってそのハンを解いていくかということも大きな課題になっているということで、ハンの碑というのはそのまま恨むという字を使って、理解をいただいて、ぜひハンを解くということも大切なのではないかと思っています。沖縄自体も沖縄戦において、十何万人の犠牲者を出していますが、やはりもう一つ朝鮮半島から連れてこられた人たちに対しては、自分たちの被害と比べてももっと悲惨なものがあったのではないかということが推測されます。慰安婦問題についても言われますし、軍婦問題については余り取り沙汰されていませんが、ぜひともこれを継続していきたいと思っています。ですから、今回もこういう活動をする形で陳情書を出したという経緯があります。

○狩俣信子委員長 参考人の説明は終わりました。
 これより参考人等に対する質疑を行います。
 なお、質疑・答弁に当たっては、挙手により委員長の許可を得てから行い、重複することがないように簡潔にお願いいたします。
 質疑はありませんか。
 新垣新委員。

○新垣新委員 私は地元が糸満市で、国立沖縄戦没者墓苑―国立墓苑の地域でもあります。その問題において、この情報を県知事にぜひ直談判をしてほしいと思います。たしか、国立墓苑の中に韓国人慰霊塔もありますよね。亡くなった方に哀悼の意を込めて平和の礎に名前の記載を、沖縄県知事を先頭に議会も一つになって、悪いことではないということを一日も早くやってほしいと思います。壁があるとか、沖縄県が認める、認めないとか、証拠があるという問題において、気を悪くしないでほしいのですが、実は地元糸満市でもこのような問題がありました。私が糸満市議会時代に陳情が出ていました。そして、探し切れないという現実問題も、あれから何十年たって非常に厳しいものがあるという中国系の問題も過去にありました。ですから、非常にこの問題は難しいと思いまして、平和の礎に名前を記載するということと韓国人慰霊塔にもこのような戦争は二度とやっていけないということもやるべきではないかとは強く思います。
 厚生労働省の数値の開きとか、このような問題がありまして、実態としてどのくらいの韓国の方が沖縄戦に兵士として行ったのかということが1点目。
 2点目に、104中隊、102中隊の問題に大きな開きがあると。名前が記載されていないという問題に関して、これは沖縄県とかけ合ったのか、それとも国とかけ合っているのか、韓国政府ともどういう形でやっているのか、沖縄県は2006年で韓国の新聞を閉めてしまったとおっしゃっていましたが、まだまだこのような窓口等において、日本政府と韓国政府でこういった慰霊碑の問題について真剣になってやらないといけないという状況等についてお聞かせください。

○沖本富貴子参考人 質疑1の沖縄戦に朝鮮人の人たちが一体どれくらい連れてこられたかということについては、正直に言いまして解明されていません。その理由はなぜかといいますと、日本政府が韓国政府に軍人・軍属の名簿を渡しました。それが24万3000人分と言われています。その中に沖縄の人たちがどれくらいいるかということがまず―それから見れば一番わかるわけですが、その名簿は日本国内では公表されていません。そして、研究者が韓国に渡って韓国政府からその名簿を閲覧して、借りることはできないのでその場に行って集計をした結果があります。その集計の結果、人数だけで名前はわかっていませんが、約3000人ぐらいは集計されています。そのほかに、沖縄戦では女性たちも連れて来られています。全部で慰安所が114カ所見つかっていますが、どれぐらい連れて来られたかについては研究は正直に言って進んでいません。そのほかに、船でどこかに行く途中なのか、沖縄に来たのか、それはその船の事情によると思いますが、海上で爆弾に当たって遭難した人たちもたくさんいます。その人たちの名簿もありますが、人数はやはり一部分であるということです。そういうことを含めて、約4000名ぐらいまではほぼ確実に言えるのではないかというのが私どもの考えです。ただ、この名簿というのは完全に全員分必ず日本軍がつくっていたとも限りません。こういう制度ができたのは45年の末期ごろで、それまでは個人的な名簿としてつくっていたものですから、それが戦争の中で焼けたり、一度は米軍に日本の資料を全部持って行かれたので、それがどこでどうなったのかということを含めますと、日本政府が韓国に渡した名簿の二十何万人という数字が全部であるということは言いがたいです。
 2つ目の質疑については意味がよくとれませんでしたので、お答えは難しいです。

○新垣新委員 私からもお願いがありまして、私はわかる範囲は慰霊碑に記載すべきだと思っていまして、たしかアメリカと韓国も安保条約のような形―米韓平和条約のような形で連携なされていますよね。大変苦労なされると思いますが、もしアメリカに、どこでどうだったかという大まかな名簿があるのでしたら、これから公表すべきではないかと強く思います。これはやはり県知事も県議会も今後相当議論が必要になってくると思いますし、いいものですので進めていきたいと思いますので、ぜひ知事にも切実な思い、まだまだ戦後処理が終わっていないということを伝えてほしいということが1点。
 2点目に、先ほどの大体4000名ぐらいの記載について、名前は厳しい、ないという状況ですよね。

○沖本富貴子参考人 1点目のアメリカとの関係でいいますと、実は、沖縄戦で捕虜になった韓国人の方たちがいます。この方たちが韓国に最後帰るときには米軍の船で送り返されるわけです。そのときに米軍が捕虜の船に乗せた乗船者名簿―これは1600人までは見つかっています。それから朝鮮人の場合、沖縄からハワイへ直接送った人たちもいます。これはアメリカの資料室に行かないとわかりませんが、何月何日、朝鮮人何人、沖縄人何人と名前まで書いているようなものがありまして、ひな形は沖縄の資料館にありました。ですので、本当はアメリカに、予算があれば行ってそういったものを調べて、せめて帰った人たちの名前がわかれば帰れなかった人が逆にわかるわけですので、そういったことも沖縄県が本当に調べてくださればどんなにいいかといつも思っております。
 2つ目に、名前が全部わからないのですかとおっしゃられましたが、日本の厚生労働省は必ず控えを持っていると思います。これは類推で、はっきりここで断定はできませんが、韓国政府に渡したのであればその控えというものが恐らくあって、日本政府に対して沖縄県なりが公的な要請でもって留守名簿の名前を1人ずつ書き写してこようと、何とか交渉して日本政府から名簿というものを見せてもらえれば、名前をチェックしていくことはある程度可能だと思います。

○新垣新委員 最後に、このような問題において、二度と戦争はしていけないということと、言える範囲でお願いしたいのですが、実は私も韓国・中国の国民とは交流がありまして、そのときによく話すことは、年配の方々は確かに気持ちはわかると。戦争に対する思いや日本が悪いことをしたと。未来志向にあるこれからの交流も考えていこうという中国・韓国の学生や我々世代の関係者、経済交流や文化交流など非常に多く聞こえますが、確かに戦後処理がまだ終わっていないという問題もある中で、未来志向に向かった交流というのがいつ、どのように開かれていくのかということは、この問題が解決してからこそ前に行くのか、それとも永遠に我々はずっと償っていくのかという問題について、若者同士でよく話し合いをしています。これは一番大事なことなのです。ですから、そこら辺をどう考えていますかと。私は差別しているわけではなく、現実、二度と戦争を起こしてはいけないという中・韓の言い分がありまして、文化とか、そういった若者関係とか、それはどう思いますかと。未来志向に向けたこれからの交流と文化はどうなっていきますかと。そこら辺をお聞かせいただいて、私の質疑を終わります。

○沖本富貴子参考人 交流の件に関しては私も非常に大賛成で、例えば現在辺野古とか、高江などで実際若い人たちも参加しながら―年齢のいっている人も多いですが、韓国などからもたくさんの方が見えて交流が実際に始まっています。そういった必ずしも戦後の処理の過程ではない形で新しいところから新しい交流が始まっていますし、それはそれでとても大事なことだと思っています。この間、実は私たち恨之碑の会のメンバー等々何人かで韓国に行きましたが、そのときに韓国では水曜集会といって、日本大使館の前にある少女像の前での集会に参加しました。集会には若い人たちがたくさん参加して、ちょうど夏休みだったせいか学校の先生がクラスの生徒を全員引き連れてその集会に参加していました。韓国では、歴史を日本がきちんと捉えてきちんと反省していないと韓国側は思っておりまして、そのことを歴史的に検証しようとしています。私たちもそこへ行って発言の機会がありましたが、その人たちは私たちを排除するということではなく、こういう形でお互いに理解をし合いながらよい方向に向かっていこうという気運はそこでもなかったわけではなく、むしろそういう形でうやむやにして解決するのではなく、お互いに認めてどうやってそれを乗り越えていくかということを同時になされながら、同時に複合的に解決していくといいますか、私はそうでしかないと思っています。

○新垣新委員 たしか小泉、安倍、福田と歴代の総理の中で、去る太平洋戦争で多大な御迷惑をおかけしましたという謝罪も中・韓には特に言って、中・韓が一番刺激するものは靖国の問題だということも理解しております。ですから、この問題において一歩一歩進んでいくためには、平和の礎に刻銘をするということが一番大事だと思っていますので、そこら辺を御理解賜って、未来志向にある交流―韓国側から逆に言ってくるのです。歴代総理が謝罪した、認めたと。ですから、こういう交流もやりやすくなったと。実態としてこういうことがあるということも理解していただきたいと思いまして、私の質疑を終わらせていただきます。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 亀濱玲子委員。

○亀濱玲子委員 基本的にはこの要請書の中の要望事項の刻銘―まず記の1の平和の礎にクォンさん、パクさんが刻銘されるべきことというのは、資料のそろっているぐあいからいっても、これはスムーズに刻銘されるべきだと思いますし、記の2、3の弾力的な運用と調査というのは欠かせないだろうと思いますので、この陳情書についてはとても大事な内容を陳情していただいたと思っています。
 一つ質疑なのですが、県の陳情書に対する対応は「平和の礎」刻銘対象者認定要領に基づいて作業をとり行うとなっているので、これについて書かれている除籍名簿がない場合、存在しない場合においては、関係者の証言あるいは死亡したことがはっきりするといいますか、確認できるに足る資料があればできると書かれていますので、それに沿っていくと県は対応すべきだと思いますが、それについて現在の県の対応については何かやりとりをされていますか。

○沖本富貴子参考人 この間の文教厚生委員会のときに私たちは後ろで傍聴していましたが、その委員会が終わった後に沖縄県の担当部署の方、それから玉城律子平和援護・男女参画課長が申請書を出してくださいとおっしゃられました。除籍名簿でしっかり書かれていないのですが、それでも大丈夫ですかと申し上げましたところ、とりあえず出してくださいと。そして、事務方からその後連絡がありまして、韓国側では何々の附属資料といいますか、どういったものを出す予定か、申請を正式に出す前にお互いに相談しながらいい方向でやっていきましょうといった話もありました。

○亀濱玲子委員 これはどことのやりとりになりますか。これを決定する方たちがいらっしゃいますよね。そういう方たちがいらっしゃるので、そことのやりとりなのか、どことのやりとりでそういうところまで至っているのか教えてください。

○沖本富貴子参考人 12月までに申請書を提出して3月に審査決定の委員会がありますが、平和の礎刻銘対象者認定審査委員は3名で構成されており、その3人の構成については、平和祈念資料館の方が1人、それから平和援護・男女参画課長、子ども生活福祉部長となっております。その中の一人であります玉城律子平和援護・男女参画課長が先日そのときに申請書を出してくださいとおっしゃられました。その下にあります平和推進班の班長であります平田いずみ平和推進班長から添付書類に関してはお互いに連絡を取り合いながらやりましょうという連絡がありました。

○亀濱玲子委員 これはここでできれば認定をしていただきたいわけですが、例えば認定されない場合、さらにどこかで審査をしてもらうシステムというものがありますか。例えば県からこの資料では足りません、これでは認められませんと言われたときに、さらにそれをどこかで審査してもらうようなシステムにはなっていますか。

○沖本富貴子参考人 それについてはわかりません。普通であれば、そういう基準に対して不服申し立てとか、何かありそうですが、詳しいことや県の仕組みについてはわかりません。

○亀濱玲子委員 続いて、例えば刻銘する基準はむしろ緩やかであってほしいと。戦後70年たって除籍などがはっきりしない状況で行方もわからないと。あるいは所在もわからない状態で家族が待っていても帰ってこない人たちの申請を家族がするとなったときに、それは基本的には刻銘されるべきで、日本軍に軍婦として連れて行かれた、出たということが確認されていれば基本的には刻銘されるべきだという弾力的な運用について、これがとても大事なところになると思いますが、具体的に、「平和の礎」刻銘対象者認定要領の除籍名簿のないイ・ロ・ハというものがありますが、それ以外にもっと弾力的にといいますと、こういう形での認定の仕方にしてほしいという具体的な要望がありましたらお聞かせ願いたいと思います。

○沖本富貴子参考人 基本的には、沖縄県の県民に対する弾力的な運用を基本軸にしていただきたいと考えています。

○亀濱玲子委員 これは参考にお聞きしたいのですが、沖縄に連れて来られたであろう3000人から4000人の名簿について、それぞれの自治体と連絡を取り合ったことはありますか。

○沖本富貴子参考人 この留守名簿の作成方法ですが、厚生労働省は最初に各部隊ごとに名簿を作成しますよね。そして、戦後これを各県ごとに全部分けまして、各県ごとの担当部局に渡したそうです。私も詳しくはわかりませんが、それに基づいて各県がそういうことをやったそうですが、朝鮮人と台湾人に関しては、鮮台班―朝鮮の鮮、台湾の台ですが、鮮台班というところでその人たちの国の名簿を整理したということまではわかっています。ですので、各県にはその分は渡っていないと考えていいのではないかと思います。

○亀濱玲子委員 実は、宮古島にも朝鮮人の軍婦や慰安婦が連れて来られた経緯がありまして、証言からしか私たちもたどれないのですが、先ほどおっしゃっていたように、連れて来られる途中で空爆を受けて、朝鮮人軍婦や慰安婦など多くの方が船上で亡くなったという証言などはありますが、きちんとしたデータがないのです。誰が来られて亡くなられたとか、引き上げられたとか、はっきりしないものもあるので、やはり県の調査が厚生労働省の資料から調査ができるともっと明らかになっていくのではないかと思います。例えば、可能性のある自治体と結びついて何か資料を調べたり、活動もされていますか。厚生労働省や県だけではなく、例えば糸満市とか、亡くなられたであろう方がいる自治体とも連絡を取り合って調べたりもされていますか。

○沖本富貴子参考人 それはやっていませんが、戦死資料というものを各市町村で必ず作成していまして、その中に必ず朝鮮人についての証言が出てきていますし、項目として取り上げているところもあります。また、市町村からさらに下に下がって、字史に証言がぽろりと出てきている場合もあります。人数については証言ですので、人数についてはっきりしたことは証言ではわかりませんが、この地域に朝鮮人がいてこういう状態だったということはうっすらとする証言の中から少しずつ掘り起こしている状態です。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 平良昭一委員。

○平良昭一委員 死亡理由は除籍本に載っているかどうか。日本人であればそんな難しい問題ではないと思います。先ほど説明しましたように、韓国では除籍の理由である死亡の際の日本の戦死認定がないためにやむなく国内で―大体そのような死亡の原因を取り入れてきたというのはこれまでの朝鮮と日本との関係があるのであえてそうしているのではないかと思います。そうであれば本来の死亡の原因がありのまま書かれていないのが今の現状だと思いますし、とてもこれは厳しい問題だと思います。ただ、日本の場合でも死亡しているけれども戦後のどさくさの中、死亡届を出していない推定101歳の方々がまだ生きているような形になって残っているわけです。そういう証言者のいない場合には、位牌など死亡月日があればそれで法務局で死亡の記載をしていくというようなことができるわけです。そして、韓国の場合はそれがこれまでの国内事情、日本とのやりとりの中でのことができないという理由になれば、やはり聞き取り調査をやっていくしかないと。それを弾力的に日本国あるいは沖縄県がやっていく方法しかないと思います。そういう面では、先ほど亀濱委員からもありましたように、除籍にかわるようなもの、沖縄戦の中で死亡したということがあれば、弾力的に県はやるべきだという認識を持っています。陳情の内容もそこですよね。そういうことを皆さんは県にやっていただきたいということでいいですよね。

○沖本富貴子参考人 全くそのとおりです。

○平良昭一委員 そうであれば、私たちの取り組みとしても当然方向性というのは県に向かわないといけなくなります。やはり今の特殊事情、日本国民ではない―いわゆる外国の方々の戸籍制度が日本と同じような状況ではないということがわかるわけですので、その辺を弾力的に考えて外国人の沖縄戦での戦死者の認定に対してはもう少し柔軟性を持って判断すべきだと思います。今のような平和の礎の刻銘対象者の認定には除籍簿が、と言われていて、外国人はそれがないので、外国人に対して認定すべきときにはそれ以外のものも認定の材料になるよう要領を改正しないといけなくなると思います。その辺をやるべきではないかと委員長にお願いしたいと思います。これは委員会としてもそのようにはっきりと参考人の方が言っていて、外国人の方も平等に同じように苦しんできて戦死しているわけですので、そのような門戸を広げてあげることは大事だと思いますので、その辺を我々委員会としても主張すべきではないかと思います。

○沖本富貴子参考人 皆さんがこのようにして動いてくださって、そして県も心を動かしていい方向にやっていただければいいかと思っています。ただ、パク・チュナさんの場合、お母さんのおなかの中にいて、この方は72歳です。そして、遺族の方が今後たくさん出ていらっしゃるかどうかということ自体も非常に心配な状況ですので、できるだけ早く時間を延ばさずに、限界の時期に来ていますので、何とかこれで朝鮮人刻銘を終わらせないで、あと何人かはもう少し追加が出ていくようないい方向にどうにか向かっていければと思っております。皆様のお力もぜひおかりしながらやってもらいたいと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 西銘純恵委員。

○西銘純恵委員 平和の礎に刻銘をしたい、実際に沖縄戦で亡くなっていると。しかし、除籍とか、今の沖縄県の刻銘の条件に該当していないということで変更を求めるという話がありましたが、平和の礎に刻銘をするという思いはどのようなものでしょうか。平和の礎というのは、外国人も誰でも沖縄県内で亡くなった皆さんがということを刻銘の趣旨に書いていると思いますが、そこら辺の思いを聞かせていただけますか。

○上間芳子補助者 朝鮮半島から連れて来られた人の思いというのは恐らく亡くなっても思いはさまざまです。先ほども少し触れていましたが、靖国神社に希望しないのに載せられた人たちも結構大勢いらして、取り消してほしいという訴訟も起きています。しかし、沖縄県の平和の礎に関しては、二度と戦争を起こさないという趣旨に沿ってあらゆる国の国籍を問わずに国民主体であるという趣旨を話しています。最初は靖国と同じような形で祭られたくないと。日本の戦争の礎に刻まれたくないという人も恐らくまだまだ大勢いらっしゃいます。しかし、今回の件に関しては、そのことも含めて一応理解をした上で平和の礎に刻銘を希望していらっしゃるという方がいらっしゃるわけですので、ぜひともこの思いを酌み取っていただきたいと思っています。

○西銘純恵委員 証拠資料がないということですが、先ほど説明された資料のパク・フィテさんと厚生労働省の平成14年の文書ともう一つの文書で、供託状況として未支給給与金がありますということは、文書の中で死亡ということも遺骨についても触れているということは、その軍隊に入って亡くなったという証明になるのではないかと思ったのですが、県とのやりとりでこれは証拠資料ということにならなかったのかどうなのかも含めてお尋ねします。

○沖本富貴子参考人 交渉の過程でこの資料を県にも差し上げましたが、この資料についての具体的な回答はありませんでした。平和の礎刻銘対象者認定審査会がことしの3月に行われたときに、私たちがこういうことを申し出ているということが審査会で話し合われたそうです。そのときに客観的な状況として、沖縄で亡くなったということがはっきりわかっている場合であっても、公的な書類がない限りは申請は不備の形になるという、評価とすればしゃくし定規の回答で終わってしまいました。

○西銘純恵委員 先ほど、外国人に対する戦没者の扱いが厚生労働省の名簿をもとに整備するということがありますし、戸籍簿または戦没者と確認できる資料が必要ということに該当するかどうかというところで、厚生労働省の資料には間違いないわけですよね。そして、亡くなった遺骨についても書いていますし、履歴事項に昭和19年7月と書かれていまして、これは先ほど沖縄の部隊とおっしゃったわけですよね。沖縄以外にこの部隊が配属されていますか。

○沖本富貴子参考人 この部隊は沖縄にしか配属されていません。直接、朝鮮半島で編成されて、釜山を通って沖縄に入ってきました。ですので、ほかの国に行っているということはありません。

○西銘純恵委員 その審査会の時点でも、やはり公的な資料に当たるかどうかというところは、今の要領でもやれば公的資料ですよねということになったのではないかという思いもあります。ですから、そこももう一度やってもらうということとあわせてそういう資料がたまたまあったお二人だったのでまだということがあっても困るので、やはり沖縄戦で亡くなった外国人の皆さんが刻銘をされるというときに、先ほどおしゃった沖縄県の「平和の礎」刻銘対象者認定要領第2条の用語の定義中の除籍簿等のところで、沖縄県民については位牌の写真などで弾力的にやっているわけですよね。そして、沖縄県民の中にもまだ除籍されていない方がいらっしゃるとか、いろいろあるようです。ですから、そういう意味では弾力的に沖縄県民は扱っているので、韓国だけではなく、外国から沖縄戦にある意味では動員されたであろう外国人の皆さんも同じように刻銘をする立場で要領そのものを改定していくという立場で県議会でも取り組む必要があるのかと思っております。そして先ほど言いました厚生労働省の文書については公的書類になると思いますが、もう一度きちんとそうではないのかということは現時点でもやれると思いますので、それをもう一度やったほうがいいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

○沖本富貴子参考人 全くそのとおりで、厚生労働省からの資料というものも強く推していきたいと思います。ただこの文書には死亡したということについてはなく、それに遺骨もありませんので、死亡したかどうかはわからないレベルの確認作業だと捉えておりまして、これで死亡証明がとれるのかという点はあります。遺骨がないので亡くなったとははっきり言えませんし、生きているかどうかまでは言及していないという、そういうレベルのものではないかと。沖縄に連れて来られたことだけはこの資料から確実にわかります。

○西銘純恵委員 供託の種類で未支給給与金がありますが、供託の種類というのは死亡を明確に特定された種類というものがあるのかどうかも含めて知っていましたらお願いします。

○沖本富貴子参考人 この未支給給与金ですが、これは生きて帰った人たちにも渡されていません。当時、戦争が終わって朝鮮人の人たちが帰るときに日本政府がどういった方針をとったかといいますと、そのときに給料というのは全部貯金させられたり、渡されるのは労務者の場合少しの小遣いで全部郵便局に貯金させられるのです。そして、軍人の場合は戦争が始まってしまって、最初のまだ上陸しないときには1回か、2回、家族によって違いますが、那覇郵便局気付で韓国に送られたということがあります。全員なのか、それをもらっていない人もいます。いずれにしろ、軍属に払われるお金は国の関係ですので、郵便局を通じて来ましたが、本人には渡されていません。戦争が終わってどさくさのときに支払っていないお金を一気におろしますとかなりの金額になりますので、そういうこともありまして、とりあえず少しだけ支給して残りは全部供託しなさいということが日本政府の方針として出ました。労務者の動員もありまして、企業者の方たちに対しては、この人は幾ら払っていないかということを名簿表としてきちんと記録しなさいという指示も出ています。ただ、軍人・軍属の場合にはそれがどのようになされたかについてはわかりませんが、ここに出ておりますように、留守名簿の下に供託番号がありまして、全部1人ずつ載っています。これは戦後につくられた名簿ですが、2回に渡って供託されている人もいます。恐らく方針として現金で渡さずに、一応これだけは未払いですという形はきちんとつくっておいて払っていないと。これに対して払ってくださいと裁判を起こしていますが、全部の裁判で負けています。理由は何かといいますと、日韓協定、正式には日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約―日韓基本条約で、そのときに一切合財のものは韓国政府にまとめて補助金といいますか、賠償金を払っているので、それで一切解決済みと。ですので、個人の請求権はその時点で消えたというのが日本政府の立場です。日本の裁判では余りにも負けたものですから、韓国国内で裁判を起こして自分たちには請求権があるという訴えを出したところ、最高裁の裁判で個人請求権はあるという判決が出てしまいました。ここまでしか私も知らないので、それ以上のことはわかりません。

○西銘純恵委員 やはり要領改定というところでやっていきたいと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 比嘉京子委員。

○比嘉京子委員 先ほど、今回は受理できないということがありまして、それで陳情を提出して、平田いずみ平和推進班長から申請を出す前にいろいろと書類等の打ち合わせをしましょうと。しかも12月までに提出して3月に決定されるということがあるわけですよね。今、そういうやりとりはされていますか。

○沖本富貴子参考人 今、やっと韓国側から添付書類はこれをつけたいという連絡がありまして、きょう終わってから平和援護・男女参画課に行きまして、韓国側からはこういう資料を出す予定という連絡があったということを言いに行く予定でいます。

○比嘉京子委員 12月いっぱいということは、今、来年に向けて大詰めの時期に来ているのかと思います。そうしますと、県の規程にできるだけ要求されている書類、それにどのように応じていくかということが1つだろうと思うのと、それからやはり刻銘の規程ですよね。規定の中にも例えば戦没者が亡くなった状況について関係者の証言等というのはこれだけ高齢化して得られない時期に―これがいつつくられた規約かはわかりませんが、そのようにどんどん変化してきているということもありますので、そこら辺はまた我々が県と見直し等については話し合いをしていきたいと思います。それでできる限りいきなり出してということではないようにということで、多分に県としては決定をする前に出される申請書についてもっとアドバイスや提案をしたいという意向が伺えるので、ぜひ来年に向けていい決定がされるように努めていただければと思います。その後のさまざまな改定や規約の見直し等については、今回いい提案があったことをきっかけにそれができればいいと思っております。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 瑞慶覧功委員。

○瑞慶覧功委員 先ほどからの委員のお話を伺って、やはり皆さんが求めている4項目は沖縄として当然の話だと思います。やはり、この刻銘条件を変えていく、もっと緩和させていくということが当然だろうと思います。あのような戦争のさなか、細かいことができるわけないですし、これだけ裏づけというものがあるわけですので、しゃくし定規にこれまでの条件で当てはめる必要はないだろうと思います。ましてや本来ですと、日本政府が強制的にといいますか、半強制的にというのが実態だろうと思いますが、そういうことをしながら終盤になりますと国もそれを一々といいますか、細かくやるような力もなかったと思います。本来ですと、国がもっとそういうことを細かくやっておけばとは思いますが、それも先ほど来のいろいろな説明の中で難しいだろうということがうかがえます。そして、きのうのある集まりの中で翁長知事が沖縄を平和の緩衝地にしていきたいとおっしゃっていました。経済もそうですが、平和でなければそれも立ち行かないということで国際連合等の―これはずっと前から公明党からも提案がありましたが、そういった平和の中心になれるような誘致も考えていきたいということを言っていますので、それに沿う形で平和の礎を設置している県としてぜひこの問題はきちんとやることによってアジアの皆さんから評価も受けるのではないかと思いますので、ぜひそういう思いでまたやっていきたいと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 金城泰邦委員。

○金城泰邦委員 今回、さまざまな資料も用意していただき、ありがとうございます。皆さんからいただいている資料を見ますと、県の「平和の礎」刻銘対象者認定要領の中には外国出身の方々の追加刻銘の要件などが書かれていますが、同じく平和の礎の紹介パンフレットの中には建設の趣旨、マーキングしている部分で「世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた全ての人々の氏名を」と、恐らく建設当初の概念にあるということも理解できていますので、戦時中のことでなかなか取りそろえることができない、誰が亡くなったのかということをできる状況ではなかったということも判断の基準として、平和の礎の刻銘については厚生労働省のどうのこうのという保障の問題とは別個に考えるべきだというイメージを持っています。こういうことで亡くなったであろうと思われる類推適用といいますか、類推という観点からも広げる必要があるとイメージしていますので、委員会としてもそういった判断が必要かと思っております。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 次呂久成崇委員。

○次呂久成崇委員 「平和の礎」刻銘対象者認定要領を見て思ったのですが、こちらでよく出てくる―用語の定義にもありますが、例えば書類不備となるということは、やはり公的書類としてそろっていないということですので、公的書類というものの定義といいますか、それをもう少し弾力的にすることによって、今、お二人の方の刻銘について陳情が上がってきていますが、一部改正を行って、公的書類というものをもう少し弾力的に取り扱うことによってほかに刻銘が可能となってくる方が何人かいらっしゃるのでしょうか。

○沖本富貴子参考人 現在、この2人以外は存じ上げていません。この間、韓国人慰霊塔の慰霊祭に韓国から17人の遺族の方たちが参加されたそうです。その日は忙しくて参加できませんでしたが、私としてはそのときに17人の方たちに平和の礎をごらんになっていただいて、自分のお父さんのお名前が載っているかどうか確認していただき、どのようなお気持ちですかと、礎を見て遺族の方がどう思うのかということもとても大事なことですので、そういうことも伺いたかったのですが、残念だったと思っています。そういう機会をなるべく捉えて平和の礎への積極的な刻銘というものを沖縄県としても―私個人がそのように頑張るというよりは、本来であれば行政側でいろいろな機会を捉えて働きかけるということも大事ではないのかと考えております。

○次呂久成崇委員 今回、一部改正を行って、例えばこのような公的書類の定義というものを弾力的に取り扱うことによって、お二人が刻銘をされるということになりますと、それがまた建設の趣旨につながって、また新たな平和への発信につながるのではないかと思いますので、やはり委員会として積極的に取り組んでいきたいと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。

   (「質疑なし」と呼ぶ者あり)

○狩俣信子委員長 質疑なしと認めます。
 以上で、沖本富貴子参考人等に対する質疑を終結いたします。
 この際、参考人及び補助者各位に対し、委員会を代表して、一言お礼を申し上げます。
 本日はお忙しい中にもかかわらず、長時間にわたり貴重な御説明をいただき心から感謝いたします。
 本日拝聴いたしました内容等につきましては、今後の委員会審査に十分生かしてまいりたいと思います。
 沖本富貴子参考人、補助者の上間芳子さん、ありがとうございました。
 休憩いたします。

   (休憩中に、参考人等入れかえ)

○狩俣信子委員長 再開いたします。
 休憩前に引き続き、参考人からの意見聴取を行います。
 次に、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表具志堅隆松氏から説明を求めます。
 参考人におかれましては、本日は御多忙のところ御出席いただきましてまことにありがとうございます。
 参考人から説明を求める前に、委員会の審査の進め方について御説明申し上げます。
 まず、参考人から御説明をいただいた後、委員から参考人等に対し質疑を行うことにしております。
 なお、参考人が発言しようとするときは、あらかじめ委員長の許可を得なければならず、発言は、陳情の趣旨の範囲内で行うこととなっております。
 また、本日は委員会が参考人の説明を聞く場でありますので、参考人が委員に対して質疑することはできませんので、御承知おきください。
 それでは、具志堅隆松参考人から、陳情第122号戦没者遺骨のDNA鑑定方法の改善に関する陳情及び陳情第123号沖縄戦没者遺骨のDNA鑑定参加方法の改善に関する陳情の提出に至る背景及び目的等について簡潔に御説明をお願いいたします。

○具志堅隆松参考人 陳情の背景及び目的について説明したいと思います。
 この陳情にありますように、ことしの4月24日に戦没者遺骨収集推進法が制定されました。これは戦後71年目にして初めて戦没者の遺骨を国の責任で収容しようという法律です。この法律の中にはもう一つ大事なことがあります。それは、収容した遺骨を家族のもとへ返すという、そのことを遺骨収集と定義づけています。そして、返す方法として、現在進められているのがDNA鑑定です。このことは沖縄だけではなく、実際、北はシベリアから南は南太平洋の島々、ニューギニア島とか、そういうところまで全部対象になっております。そして、今回、この法律を施行するに当たり、まず沖縄から始めようということで、現在沖縄では既に着手されました。これまで遺骨収集で見つかった遺骨というのは沖縄県にお渡しして、それが火葬され、その上で摩文仁にあります国立沖縄戦没者墓苑におさめられていたのですが、私たちが2009年に那覇市真嘉比で行った緊急雇用創出事業としての遺骨収集事業のときに172体でましたが、そのとき1体だけ名前の書かれた万年筆を持っている方がいました。その方を平和の礎で検索した上で千葉県出身ということがわかりましたので、共同通信にお願いして千葉県内の新聞にそのことを掲載してもらいますと、その日の朝に連絡が来ました。そして御遺族にDNA鑑定をしませんかということをお聞きしますと、やりたいということでした。それまでは国に対してDNA鑑定をやってくださいとお願いをしても、国からの返事というのは、沖縄は南方地方のために遺骨の劣化が早く、遺骨にDNAが残っていないというのが公式見解でしたが、それ以前の2003年に日本では大がかりなDNA鑑定を行ったのです。シベリアで出てきた遺骨は全部DNA鑑定を行って、そのときに800体余りが返っています。現在では1000体余りが返っているとなっていますが、それで沖縄の遺骨もやってくださいということを要請しました。しかし、今述べたように、沖縄は南方地方のためにということで対象にならないといいますか、実際にやってくれなかったというのが実情です。クチカタセイさんという名前の書かれた万年筆だったのですが、御遺族に最初に聞いたことはクチカタセイさんは大きな方ですか。それとも小柄の方だったのですかと聞きました。そうしたら、御遺族がこのように言いました。「当時としては珍しく180センチメートルあったそうです。」と。それで私もこれで間違いないと思いました。その万年筆を持っていた遺骨の方というのは、大腿骨の長さが46センチメートルありました。私たちは真嘉比で出てきた遺骨の1体1体を全部そのようにして遺骨の―例えば、四肢骨、手足の骨の長さを計測して記録した上で、残りの特徴をクチカタさんについて言いますと、上顎前歯の前歯4本に金冠がかぶっているということで、そのような記録を残していました。この方は恐らく私がこれまで遺骨収集をした中で一番大きな方でした。そういう意味でも状況証拠としては間違いないと思っていたので、このDNA鑑定が1回で成果が出なくても、何回でもこれはやってもらおうというつもりで臨んで、実際に歯を抜き取って厚生労働省へ届けました。これはほかの骨でもよかったのですが、どこが持って行きやすいだろうかということで歯にしましたが、そうしたら歯からDNAがとれたのです。それからは国に対して沖縄で出てくる遺骨はDNA鑑定をやってくださいという要請をしました。そして沖縄県に対しては、皆さんは陳情を覚えていらっしゃると思いますが、見つかった遺骨を火葬して、国立沖縄戦没者墓苑におさめるとなっていますが、火葬をするという作業をやめてくださいということを要請しました。そうすると、火葬は皆さんの御協力でとまることになりました。ところが、これは去年の6月22日の新聞―去年か一昨年だったと思いますが、琉球新報にこういうことが載っています。沖縄県が火葬を再開すると。その理由といいますのが本当に腹が立つことなのですが、遺骨の仮安置所が満杯になりそうだからというのです。私はすぐさままた陳情を上げました。要するに、遺骨というのはものではない、人間だと。それを満杯になったから焼くというのはおかしくないですかと。そもそも沖縄県が遺骨を焼いているのは、遺族の了解を得てやっているわけではないですよねと。遺族にとってはDNA鑑定で戦没者が自分のところに帰ってくるということは、希望であり、権利ですと。それにもかかわらず沖縄県では遺族の了解も得ることなく焼いてしまっています。そうしますと、DNA鑑定で帰る道を全くゼロにしてしまいますと。そうしますと、その再陳情がまた採択されて結局とまりました。そして、去年の6月までの時点で600体たまっていると言われています。その600体が今回のDNA鑑定の対象になると私はずっと思っていました。ところが、この法案ができてから実際にふたをあけて中身を見てみますと驚きました。600体のうち、DNA鑑定の対象になるのは87体なのです。これは資料の中にもありますが、理由は遺骨の中で歯がある遺骨を対象とする、いわゆる歯を検体とするということ、これが原因です。私はこのように言っています。「戦争の犠牲になった人たちで歯がある、ない、そのことによって帰れる、帰れないという差別が生じてしまっています。」と。もしこれが歯からしかDNAがとれないというならまだしも、歯以外からもとれています。これは資料の新聞記事で「韓国、DNA鑑定幅広く」とありますが、実は韓国では朝鮮戦争の犠牲者の遺骨はDNA鑑定を行っています。そのときに検体として使っている体の部位は大腿骨なのです。そして、その次の資料の中に数字が書かれているものがあると思いますが、これはソウル大学の博士論文の研究の中で、体の部位のどこがDNAがとれやすいかという研究ですが、大腿骨は歯の35倍の割合でとれています。今、世界中で歯に固執しているのは日本だけではないかと言われているぐらいで、手足の骨からも十分とれているのになぜ歯だけにするのかと。これは絶対に改善しなければいけないことだと思っています。皆さんに特に理解していただきたいことは、沖縄戦の犠牲者の中で半数以上はウチナーンチュです。そういう意味でも自分たちのこととして捉えてほしいですし、翻って本土に当てはめると、沖縄戦で亡くなった兵隊の方々というのは日本中から来ています。そういう意味では私たちがここでこのようなことをお話しして決めていくということが日本中の遺族に還元される大事なことだと思っています。そして、資料の一番上、2枚あるうちのA4の資料の一番上に、戦没者遺骨返還のあり方を考える国会内集会というものがあると思いますが、10月13日の参議院の議員会館の会議室で議員向けの院内集会を行いました。要するに、ここの中にもありますように、4月24日に法律が施行されて、遺族の方々がDNA鑑定に参加できるということになりましたが、どうもこのこと自体が特に本土においては余り遺族に伝わっていないということで、国会議員の人たちにそのことを地元に帰ったら一言でも、二言でも遺族に伝わるようなことをしてほしいということで、そのような集会を持ちました。そして、遺族の方にも来ていただいて、実際に気持ちを述べていただいたりしました。沖縄からまずDNA鑑定を始めるということですが、実は沖縄で見つかった遺骨全部が対象ではないと。これは歯があるなし以外にも地域を固定してからやっています。幾つかの地域を限定して、その地域の限定というのが―資料の中の地図にもありますように、那覇市の真嘉比、西原町の幸地、大里村の平川、そして浦添市の経塚の4カ所で見つかった遺骨を対象にするということなのです。これは数的にも多いということもありますが、真嘉比の55体―結果的には53体を対象にするということですが、これは私たちが2009年の10月9日から12月10日までの2カ月間、今の真嘉比小学校の南隣は大きな道路になっていますが、そこで緊急雇用創出事業として遺骨収集を行ったときに発掘された遺骨です。実際には172体出ていましたが、歯がある遺骨は55体という報告がありました。このことからも言えることは、実は私のところに幾つかの連絡がありまして、「私の父親は糸満で亡くなったと言われていますが、私たちは参加できないのですか。」とか、あるいは「東風平で亡くなったけれども、私たちは参加できないのですか。」という方が結構います。これは沖縄県内からもありますし、本土からもあります。要するに、4カ所以外の地域で亡くなった人たちのDNA鑑定がいつになるのかということがまだわかりません。この4カ所のDNA鑑定というのは、現在、遺族が検体を送って既に始まっていますが、これが今年度中に判明するということで、それ以降ということですよね。そうしますと、また次の年度でやるのか、そのときは県内全地域に拡大してやってくれるのか、今度は本土の方、あるいは南方で亡くなった方の遺族にとってフィリピン共和国はいつやってくれるのか、あるいはニューギニア島、ブーゲンビル島はいつやるのかという話になりますと、まだ全く見えないのです。地域限定で一番問題なことは―A3の資料の新聞記事に「沖縄戦父帰る」とありますが、この記事の一番下から2番目に太い文字で「異なる戦死の場」という箇所があります。実は、沖縄戦というのは誰がどこで死んだかということがほとんど伝わっていません。皆さんは恐らく御存じだと思いますが、そういうものをどうしたのかといいますと、最後に見かけた場所を死に場所として、そこから石を拾ってきてお墓におさめると。そういうことがほとんどされています。この方は田畑耕三さんという犠牲者で、息子の田畑一夫さんが遺骨を受けとってくれたのですが、御遺族のもとに届いていた戦死公報―死亡通知書には、山川にて戦死とありますが、遺骨が見つかったのは浦添の前田小学校正門前です。あと、A3の資料で表になったものがあります。この資料は何かといいますと、アメリカ軍がつくった資料に基づいて私が作成しましたが、アメリカ軍は米軍の捕虜収容所内で亡くなった日本兵の記録を残しています。そこには沖縄の収容所で亡くなった日本兵は232名となっています。ウチナーンチュのリストがこの表ですが、71名あります。そのリストを平和の礎へ持っていって、実際にこういう名前の方がいらっしゃるのだろうかということで検索してみました。それに基づいて作成したのがこの表になります。同姓同名もたくさんいます。この中で大事なことは、71名のうち遺族が米軍の収容所で亡くなったということを認識している方は2人しかいません。みんなことごとく場所が違っています。この2人というのは1ページ目の一番左側の数字が24番のウエバラカキチさん、名護の方で、この方は遺族の申告で屋嘉米軍病院となっています。これは平和の礎に申告するときに、ウチナーンチュの場合には、氏名・住所・生年月日・死亡場所・死亡年月日がわかりますが、それによって出しました。そしてもう一方が3ページ目の149番、ミヤシロトクスケさんで、米軍屋嘉収容所となっています。この米軍のつくったリストの上を見てみますと階級とありますよね。名前・死亡年月日・階級までが米軍資料に基づいていますが、この中で遺族が米軍の収容所で亡くなったということを認識できている方は2人しかいません。それ以外の方はみんな違う場所で亡くなったと捉えています。このようにして亡くなったという場所から遺骨が出てきても、その遺骨と照合しても合わないのです。これまで4体だけDNA鑑定で判明しています。このリストには載っていませんが、この4体というのは真嘉比が3体、それからもう1体が新聞記事にあります浦添市前田小学校の正門前の方で、この4体の御遺族のうち、2人とは連絡がとれました。その2人の御遺族に死亡場所を確認してみますと、これも異なっていました。ですから、行政が把握している死亡場所は余り当てにならないのではないかと捉えたほうがいいと思います。ですから、この4カ所で亡くなったと思われる、そこにいた部隊の遺族に通知を出すというのですが、私はそんなことよりもむしろ希望する遺族のDNAを先にとってほしいと。とり方というのは簡単です。耳を掃除する綿棒がありますが、綿棒で口の中を拭いて、それをビニール袋に入れて厚生労働省に送ります。これは正式な検体採取の手順ですが、これをわざわざ地域を限定してやるのではなく、希望する方から先に対応してほしいというのが私の要望です。そうでないと、とても非合理的といいますか、結局何度もやらないといけなくなってしまうのではないかと思います。なぜこういうことを言うのかといいますと、遺族の高齢化を考えると本当に時間がありません。例えばことし対象ではなく、来年対象になるかもしれないという人が来年まで生きているかどうかはわかりません。ことしやったからといってすぐに見つからなくても、DNA鑑定の一番のメリットは遺族を安心させることだと思っています。10月13日に国会内集会で開催したときに来ていただいた遺族―田畑一夫さんに来ていただいたのですが、田畑一夫さんがこのようにおっしゃっていました。「息子としての務めを果たすことができた。」と。遺族にとってはやはり父親であり、母親であり、兄であり、兄弟を突き放しているのではなく、今でも探しているという、そういう作業―しかし、これは個人個人では限度があります。ここに来てDNA鑑定をやるというのであれば、むしろ高齢の希望する御遺族から先に検体をとって、そして今見つかっている遺骨と照合する。それで合わなければ来年見つかる遺骨と照合すると。私はそのことが一番合理的ではないかと思っています。
 今、2つの陳情を出しています。1つは、遺骨のDNA鑑定のやり方を改善してほしいということで、これは一言で言えば、歯だけではなく手足の骨も対象にしてほしいということ。それから今度は遺族側のDNA鑑定への参加のやり方についても陳情を出しています。それについては、国から地域を限定してここで亡くなったと思われる遺族に呼びかけるということよりは、むしろ遺族の中で希望する遺族を先にやってほしいということです。今回、国が沖縄において亡くなった遺族に対してDNA鑑定の呼びかけを行っていますが、これが10月13日の国会内集会のときに厚生労働省にも来ていただいて、報告していただきました。そうしますと、2533人の遺族に対して呼びかけて、何%の方が手を挙げてきてくれたのかということについてですが、これは17%という数字です。これはまだ非常に高いほうです。なぜかといいますと、2003年にシベリアの遺族に呼びかけたときに手を挙げたのは10%だったと言われています。これは遺族にそういう気持ちがないというわけではありません。高齢化でいなくなっていっているのです。年々物すごいスピードで遺族の数が減っていきます。今やらなければいけないことは、まず希望する遺族から先にDNAを出していただいて、それを今見つかっている遺骨と照合すると。そしてそれで合わなければ来年見つかる遺骨と照合する。そのことが一番合理的でもありますし、遺族を安心させるやり方だと思います。
 配付した資料に基づいての説明は大体これで済んだかと思います。
 ありがとうございました。

○狩俣信子委員長 参考人の説明は終わりました。
 これより参考人に対する質疑を行います。
 なお、質疑・答弁に当たっては、挙手により委員長の許可を得てから行い、重複することがないように簡潔にお願いいたします。
 質疑はありませんか。
 金城泰邦委員。

○金城泰邦委員 具志堅参考人には、長年、沖縄の戦没者の遺骨収集作業に取り組んでいただき、本当に頭が下がる思いでいます。
 先日、私も糸満市での収集作業に参加させていただいた際に、具志堅参考人から非常に重要なお話を伺ったと思っております。いろいろなところでこれまで遺骨収集作業をしておりますが、特徴として見つかる遺骨は日本軍人であり、ウチナーンチュであると。米軍の遺骨はほぼ見つからないという特徴があるという御説明がありましたが、そのことについて御説明いただけますか。

○具志堅隆松参考人 学校で講話をしますと、アメリカ兵の遺骨が見つかることもありますかということで子供たちからもよく質疑がありました。それはありません。これはアメリカ兵の犠牲者が少ないというわけではありません。アメリカはこのように言っています。「戦争の犠牲者を国に連れて帰るのは、アメリカの伝統である。」と言い切っています。それに対して日本では、例えば負けた戦なので死んだ仲間を置いて退却せざるを得ないということはわかります。しかし問題は戦後です。戦後になって、経済力も回復してできるはずなのに、まして沖縄は東京から日帰りもできる場所であるのにそれが行われなかった。南方においても行くのが困難かといいますと、そうではありません。ODA―政府開発援助では橋をつくりに行ったり、道をつくりに行ったりしています。そのときにも実際遺骨は出ていると言いますが、それにもかかわらず国はやっていません。南方の遺骨収集というのは、遺族会、戦友会が遺骨収集に行くことに対して、国が旅費を援助するだけなのです。私は国に対して、なぜ国が積極的にやらないのですかと聞きますと、このように言いました。「私たち公務員が動くには根拠となる法律が必要なのです。遺骨収集については法律がありません。」と。それがやっと今回できたということです。

○金城泰邦委員 私も当時、米軍人の遺骨が見つからないという話を聞いたときに衝撃を受けました。ここに国の姿勢といいますか、そこが顕著にあらわれていると私は受けとめました。戦後70年過ぎていますが、その間、国としてとってこなかったのは戦後処理としての遺骨収集作業の重大さに対する欠落だと思っていまして、これはぜひやっていかないといけないですし、それは沖縄から発信していかないとなかなか国を動かすことは難しいのではないかと。これまでの取り組みや苦労は、一番具志堅参考人がよくわかっていると思います。沖縄側から発信すべきものかと思っていますが、その点についてはどうお考えですか。

○具志堅隆松参考人 今、委員がおっしゃったように、このことは図らずも結果的にそういうことになります。といいますのは、沖縄で現在始めたDNA鑑定、そしてこれから遺骨収集をどうするかということで、沖縄での結果が今後外地において行われる遺骨収集あるいはDNA鑑定のやり方のひな形になるはずなのです。今ここで私たちがこのようにつくり上げていくものがまさに日本中の遺族のためになることだということを自覚しておりますし、このことというのは単に沖縄だけの問題ではなく、日本の国民の国に対しての戦争責任、国家が国民に対する戦争責任のとり方がまさに問われようとしていると私は捉えています。

○金城泰邦委員 亡くなられた方々も遺骨の収集作業に当たっても、やはり人権の一つだと思っていますし、そこは同じ人権の扱いとして、義務として受けとるべきだと思っています。
 もう1点だけですが、収集によって見つかった遺骨や遺品があると思います。沖縄県平和祈念資料館で保管しているものというのは、そういったものを全て保管していると私は認識していましたが、現実はそうではないということもあったと思います。その点について御説明をお願いします。

○具志堅隆松参考人 今の質疑は全体が広過ぎるような気がしますが、例えば私はこのように捉えていました。現場を読み解くという言い方をよくしますが、現場で遺骨の見つかり方、これは考古学的手法といいますか、遺骨を動かさずに周りを掘り下げていって、遺骨の状態、姿勢、何を持っているか、その遺骨が骨の状態からして何歳ぐらいの方なのか、男性なのか、女性なのか、兵隊であるのか、住民であるのか、それからそこから出てきたもの―場所によってわかること、遺骨によってわかること、持ち物によってわかることの3つを総合して、この方がいわゆるどういう人なのかということをある程度絞り込んでいくような作業をしていました。そのことによっていろいろなことがわかっていきますが、そこから出てきた遺品というものもできるだけ現場に残すべきという考えを持っています。といいますのは、現場にあれば次に訪れた人も遺品を見て、そこで戦争があったということを認識できるという意味では、できるだけ現場にあるべきだというのが考えです。しかし、今、委員がおっしゃったように、これから先、出土物でもって沖縄戦を伝えるという考えというのは大事なことではないかと思います。私はその考えにのっとって、真嘉比で出た遺物というのは全部とってあります。なぜかといいますと、あそこは道路になってしまったので残すことができなかったのです。それで毎日出てきたもの―土のう袋の1杯分ぐらいずつ出てきますが、期間中に出てきたものを全部残していて、ある一定の区画から出てきたものを日にちごとにとりまして、何日はどこの作業をしているというものがありますので、どこに出てきているということを那覇市に対して示すことができます。そういう意味では、沖縄戦の資料としてぜひとも平和教育に活用してほしいということをお願いしてありました。最初はそうしましょうということでしたが、事業が終わって担当の方が変わったら、受け取りを拒否されてしまいました。しかし、これはある特定の地域から出てきたもので、これでもって戦争を確実に伝えることができる貴重な資料だと思っておりまして、これについては私が持っていても意味がありません。むしろそれを活用できるところに活用していただきたいですし、これについてはものが何であるということも十分説明できます。例えば、2.5メートル掛ける6メートルの広さから出てきた砲弾の破片の数が320個余りありました。これはどういうことを裏づけるかといいますと、よく沖縄戦で鉄の暴風という言い方をされますよね。まさにそれです。それから、真嘉比の我々がやっていた場所で見つかった小銃弾を全部とってあります。これは発射されたものなので危険はありません。それを10月9日から10月31日までの20日間に出た分を試しにカウントしてみますと、アメリカ軍の小銃弾は511発ありました。日本軍は5発です。この比で100対1ですよね。沖縄戦の証言にこういうものがあります。「アメリカ軍に向かって1発打つと、すぐに100発ぐらい撃ち返された」と。それはオーバーかと思っていましたが、少なくともその現場では弾の数で証明されます。そのようにして出てきたもので沖縄戦の裏づけをしていくという作業ができると思っているので、これは貴重な資料になると思っています。今、那覇市が受けとってくれないので正直がっかりはしましたが、これはいずれきちんとした資料として我々が次の世代に引き継ぐ必要がある大事なものだと思っています。話の趣旨が異なってしまいましたが、これについても皆さんぜひ一緒に考えてください。今言われたように、沖縄県平和祈念資料館にあるものもそれはそれで大事です。しかし、あれはどこで見つかって、ものが何であるといった裏づけといいますか、それがなされたかといいますと少し疑問な点があります。しかし、真嘉比の資料については沖縄大学でも出土品の調査を行っています。そういう意味では、全遺品にキャプションをつけてから使えるようにしたいと考えています。

○金城泰邦委員 今、たまたま具志堅参考人が御健在なのでいいのですが、一NPO法人の事務所に遺品や出土品がそのままというのはおかしいです。これはぜひ県や那覇市がしっかりと保管して、戦後沖縄にこういうことがあったのだということを次の世代にもしっかりと伝えていかないといけない、非常に大事なものですので、これはしっかりと要請してください。

○具志堅隆松参考人 ありがとうございます。なぜうれしいのかといいますと、そういうものを持っていて、これは絶対大事なもので将来活用しないといけないと思っていますが、私が亡くなったら私の家族はこれを処分するのにとても大変なことになると思います。捨てるわけにもいかないですし。ですから、これを那覇市であれ、沖縄県であれ、受けとってそれを活用するというのであればお手伝いします。ぜひお願いします。これについてはまた改めて陳情という形をとりたいと思いますので、よろしくお願いします。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 西銘純恵委員。

○西銘純恵委員 戦後71年たって、まだ戦争責任が日本の国として不十分なままにあるということをとても感じます。唯一地上戦が行われた沖縄には本当に多くの遺骨が残っていますし、肉親を奪われて亡くなった遺族の皆さんも高齢化して、どのような思いでこれからの余命をというところもあると思います。そういう意味では、やはり法律が制定されて、具志堅参考人がおっしゃるように、沖縄県民から真っ先に遺族のDNA鑑定を行うというのは当たり前な政府の責任ではないかと思います。この法律の制定とDNA鑑定の財政的な部分ということも絡むと思いますが、厚生労働省と県民の遺族のDNA鑑定について具体的なやりとりというのはありましたか。

○具志堅隆松参考人 沖縄戦の戦没者と遺族のDNA鑑定について、国がこれまで述べていた部分としてこういう言い方があります。「4カ所の地域にいたと思われる部隊の名簿によって、戦没者の遺族を特定し、連絡をする。」と。この話というのは兵隊の話ですよね。それで何名かの議員に沖縄の住民についてはどうするのかということも聞いてくれないかということで聞いていただきましたら、国が言っていたことが―これは確か資料もあるはずですが、「住民については沖縄県がやります。」と。DNA鑑定は国がやりますが、住民への連絡―いわゆる通達ということだと思いますが、先ほど言いました2533名のうち17%の人が手を挙げたというのは、実は兵隊の話だと思っています。沖縄の住民がどうなったのかということについては、平和援護・男女参画課に聞きたいと思っています。それから費用についてですが、国から漏れ聞いている範囲では、DNA鑑定については費用をそれほど懸念するようなものではないということを聞いています。といいますのは、遺骨のDNA鑑定についてこれまでの国とのやりとりの中で私たちが確認していることは、遺骨の場合は5万円だと言われております。そして遺族の場合は3万円だと言われております。これは1組ですと8万円ですよね。実は、NPOでDNA鑑定を行っているところが福岡にあります。日本で行われているDNA鑑定は、父子鑑定―父親と子供に血縁関係があるかということを確認するような作業だと思いますが、国内で一番数をこなしていると思いますということを言っていました。ちなみに、NPOだと遺骨と遺族のDNA鑑定は幾らぐらいかかるのかお聞きしましたら、両方で4万8000円ぐらいだという返事をいただきました。私たちは特定の企業や団体をそういうものに勧めようという気はありませんが、税金の使われ方としてはそれは考えないといけないことだと思います。

○西銘純恵委員 沖縄県民が一番つらい思いをして長い間胸にためてきたと。しかも今の政府の状況などを見ていると、また戦争が起こるかもしれません。ですので、戦争がどのようなものだったのかという語り部がどんどん出てきているという状況がありますが、そういう中で本当に沖縄県民の遺族や住民のDNA鑑定を沖縄県が通知をしてやっていくと先ほどおっしゃっていましたが、やはりそこら辺は県が率先して遺族の皆さんのDNA鑑定を厚生労働省がやるということであれば、住民の皆さん、遺族の皆さんの中でDNA鑑定を希望する皆さんはどうぞということで、沖縄県が沖縄県民の遺族に対しては早くやるべきだと思います。議会ですので、積極的に県政に求めていくということをやったほうがいいのか、そこら辺については御意見をお願いします。

○具志堅隆松参考人 まさにおっしゃっていたように、沖縄県議会として県民の戦争犠牲者遺族のDNA鑑定―ある意味、精神的な救済といいますか、遺骨を家族のもとへ帰すといった作業が国の法律によって行われるという、そういう時代になったということです。それであれば、沖縄県もただ国がやることに任すだけではなく、もっと主体性を持って自分たちのこととして取り組んでほしいと思っています。それについては沖縄の状況がどうなっているのかという情報を沖縄県はもっと発信するべきだと思いますし、例えば「沖縄戦の犠牲者と遺族のDNA鑑定が始まりました。この機会にぜひ皆さん参加してください。」と呼びかけたり、ただ参加してくださいと言いましても今の段階だと4カ所の方だけなので、その枠を取っ払って希望する方から先に受け付けておくぐらいのこともやっていただきたいと思っています。

○西銘純恵委員 沖縄県の課題をお尋ねしましたので、そういう方向でということを考えていますが、後は鑑定場所の話、大腿骨とかDNA鑑定ができるところからやるべきだということも我々に陳情で出されていますので、やはりそこは厚生労働省に鑑定率といいますか、確率も高い部分があるということが科学的に出ているということであればそれも進めていくべきだと思います。
 もう1点お尋ねしたいのですが、住民収容所の中で亡くなった皆さんなどがどうなっているのかというところがありまして、キャンプ・シュワブの中は戦後、基地になったために、入れていないわけですよね。そこの遺族の皆さん―これは名護市が出されて、今帰仁村の墓地が基地の中にあったと。今帰仁の収容所や本部住民収容地区、伊江村など、そういう地図も明確に出されていますが、基地になってしまって住民が戦後入れず、遺族として手向けることもできなかったとか、亡くなった家族がどうなっているのかとか、そういう思いがあると思います。この基地の中という特殊な、とりわけキャンプ・シュワブという中で遺骨調査が必要だと思いますが、それについてはこの間どのような取り組み、それから考え方を持っていますか。

○具志堅隆松参考人 沖縄での遺骨収集、いわゆる戦闘があった場所での遺骨収集というのが主にこれまで行われていまして、住民収容所で亡くなった方の遺骨がどうなっていたのかということについては実際盲点でした。これはキャンプ・シュワブだけではなく、宜野座村でいいますと、11の収容所がありまして、9つの埋葬地があります。この住民収容所には埋葬地が必ずつきものなくらい亡くなっていくのです。例えば、沖縄でも住民収容所といいますと、コザ・石川・金武・宜野座・辺野古・東村・ヤンバルもそうですが、これは北に行くほど食料事情はとても悪くなっていきます。例えば、あれは東村といいますか、大川の収容所だと4000人余り収容されていたうちの1017人が亡くなったといわれています。4分の1です。原因はほかの収容所も一緒ですが、逃げることもできない―強制収容所は逃げようとすると射殺されることすらあったと言われていますが、そういう強制収容所であるにもかかわらず、食料が十分配給されないと。そこではみんなが栄養失調になり、そこにマラリアが蔓延して、体力がない者から亡くなっていったと。そして、宜野座村の福山でも600人、古知屋第一でも400人余り亡くなったと言われていて、今、古知屋の埋葬地は畑になっていますが、福山収容所は埋葬地がわかりました。それで今、宜野座村の博物館と一緒にそこを調査していました。そして、博物館はそれに着手しまして、まだ進展しているわけではありませんが、そういう北部の収容所の埋葬地の調査もむしろ沖縄県にやってほしいと思っていますし、このことについて私たちから沖縄県北部の収容所の埋葬地の調査をやってほしいという陳情を出しています。それを出した後にすぐキャンプ・シュワブの工事が始まったので驚きましたが、キャンプ・シュワブは特に急いでほしいと。私に言わせれば沖縄県の仲井眞知事が申請を承認したことには瑕疵があると思っていまして、それはどういうことかといいますと、工事の仕様書でどのように工事をするのかというときに、例えばそこに住んでいるヤドカリなどの天然記念物にはどのように対応するのか、それから毎年あります地域の伝統行事に工事が影響を及ぼさないようにどのようにするのかといった、いろいろな事細かなことを沖縄防衛局は申請するに当たり対応策を述べてから出しています。しかし、そこに遺骨のことは一言も出てこないのです。その時点では、実はまだキャンプ・シュワブが大浦崎収容所であったということ、そこには埋葬地があって、戦後この方一度も調査されていないということ、そのことはまだほとんど知られていませんでした。キャンプ・シュワブは以前大浦崎収容所といいまして、6月の中旬ごろに米軍のトラックが来て、本部・今帰仁・伊江島の人たちに全員乗りなさいと言って連れていった先が今のキャンプ・シュワブなのです。そこは住民収容所―言わば強制収容所なのですが、そこに今度は戦闘場所で収容された中南部の人たちがそこにも送られます。私が把握しているだけでそこで亡くなった人たち304人は確認しています。これは平和の礎で大浦・大浦崎・大浦崎収容所で亡くなったという人を調べて見ましたら、304人になっています。実際に大浦という部落もありますが、それは除きました。そして、キャンプ・シュワブの大浦崎収容所に収容されていた方で松田さんという方がいます。この方から話を聞いたときに屋嘉節みたいな歌が収容所の中でつくられて歌われていたと言っていました。歌詞は教えていただきましたが、その歌詞の中に「400の魂」という一節がありまして、当時、収容所の中で400人の方が亡くなったということを中に収容されていた人たちが認識していたのだと。この亡くなった人たちの中で、平和の礎に大浦崎で亡くなったと申告した人は遺族が知っているということですよね。ところが、南部の戦闘場所で1人で捕虜になって、そこに連れて行かれて1人で亡くなりますと、これは伝える人がいません。私のもとにあるおばあさんからこのような電話が来ました。自分は当時7歳だったと。7歳でおばあさんと一緒に宜野座の収容所に米軍の捕虜になってから連れて行かれて、そこの収容所でおばあさんが亡くなって埋葬されるところを見ていたと言うのです。しかし、小さくて何をしていいのかわからないままずっとこの歳まで来ていると言うのです。今からでも探せますかと。こういう状況というのは各収容所にあるはずです。小さいがために身内の死をどうしたらいいのかわからない、あるいは孫の死をみとったおばあさんが部落に帰ってすぐに亡くなりますと、それをとりに行く手だてもなかったとか。そういう意味では北部の各収容所の埋葬地はまだ本格的に調査がされていません。キャンプ・シュワブについて言いますと、あそこは大浦崎収容所が解散した後、1956年という戦後の早い時期にキャンプ・シュワブの建設のために立ち入りができなくなります。通常、収容所から開放された人たちというのは部落に帰って、生活が落ちついてから遺骨をとりに行こうとしますが、そのときには立ち入りができなくなっていたと。そういう意味でも遺骨が残っている可能性が高いです。それから、ヤマガワカズコさんという方―これは新聞の記事にもありますが、この方はお母さんを大浦崎収容所で一緒に収容されているときに亡くして、お母さんを埋葬しています。家族で埋葬して、おじさんが豚小屋から大きな石を転がしてきて、埋めた頭のところに置いたと。ヤマガワさんはこの意味がわからなかったと言いますが、おじさんはこの石を忘れるなと言っていたと。戦後2年目におにいさんたちが帰ってきてから、埋葬場所に遺骨を掘りに行ったときに草が人の丈ぐらい生えていて、どこにあるのかが全くわからなかったと言っていました。ところがその石を探すことができたので掘り当てることができたと。そして、ヤマガワカズコさんがおっしゃるには、お母さんを埋葬後1週間後にお参りに行ったときに、右側には新たな土まんじゅう―要するに、埋葬した後が3体あって、左側には7体ぐらいあったと言っていました。その人たちは何も目印をしていないので、わからないはずと。ですから、多くの人が探していたかといいますと、まだ疑問があるのでこれは調査すべきだと。ヤマガワカズコさんがお母さんを埋葬した場所というのは地図上でも指摘できます。先ほどの地図の中、いわゆる今帰仁の墓地と言われているところの南側の海岸線に沿った場所です。そういう意味でも私はキャンプ・シュワブの中の埋葬地と言われている場所は調査すべきだと思っています。

○西銘純恵委員 DNA鑑定もそうですが、今言ったように遺骨がまだ収集されていないというところも、県政が基地の中も調査すべきという立場を話されたと思いますので、以上で終わります。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 比嘉京子委員。

○比嘉京子委員 1つ目の陳情第122号の記で「遺骨のDNA鑑定の検体を歯のみでなく、四肢骨も検体とすること。」という部分がありますが、それに対して県は「歯以外の部位については、十分なDNA情報が抽出できない場合が多い」という認識を示しています。それについてはどうお考えですか。

○具志堅隆松参考人 歯以外からDNAがとれにくいという考えもあります。それはどういうことかといいますと、その遺骨の状況によります。遺骨が地表にあって、風雨にさらされたり、あるいは紫外線にさらされているような状況ですと正直に言いまして遺骨からはとりにくいです。そういうときはむしろ歯のほうがとれやすく、そのように地表にある遺骨というのは風化して表面からさらさらになっていきます。そういうことは確かに厳しいと思っていますが、土をかぶっている状態だとこれはとれています。といいますのは、例えば琉球大学で古人骨―発掘された古い人骨ですが、例えば1万年前、2万年前といった古人骨からでもDNAはとれています。今、おっしゃっているように、歯以外からとれにくいという見解というのは、地表にさらされているような状況においては、確かにそれは言えます。しかし、埋葬状態の場合は非常に状態がいいです。ただし、掘るときに出てきた遺骨をできるだけ手で触ってほしくありません。あるいは汗をかきながら掘っていて、掘っている人の汗が骨にかかりますと、掘っている人のDNAが出てしまうのです。ですから、そういう意味では、遺骨収集に携わる人たちへの啓発も必要かと思っています。それから、先ほどのものと関連しますと、遺骨収集というのは南部では今までよくやられていますが、基地の中には入れないと。しかし、そこにあるのは大体埋葬状態といいますか、土をかぶっている状態です。これは少し加えますとキャンプ・シュワブだけではありません。キャンプ・キンザーもそうです。向こうは米軍がアイテムポケットと呼んでいるような物すごい激戦地です。そういう意味ではこれから先キャンプ・キンザーもそういう候補にしてほしいと思っています。

○比嘉京子委員 具志堅参考人の認識としては、その状況によるということで、ここでは科学的な知見からできるのか検討したいと県が認識を持っているものですから、それについて具志堅参考人の見解としてはさらされている場合以外の埋葬されている状態では問題がないということで受けとめておきます。

○具志堅隆松参考人 埋葬されている状態ともう一つは防空ごうの中、あるいはガマの中にありまして日にさらされていないとか、そういう状態も含めて状態はいいと判断しています。

○比嘉京子委員 2つ目の陳情第123号の処理方針ですが、これまで私も厚生労働省に直接要請に行ったこともありますが、豆腐にくぎのような、気のないような受けとめ方というのが印象に残っていますが、それでもこれだけ粘り強くされてきたことでDNA鑑定は遺品がなければやらないということを前進させられましたし、今回、法的根拠がないのでできないというところに法的根拠をつくってもらったと。これは具志堅参考人の大きな力だと思います。そして、そこにさらに具志堅参考人が例えば4カ所という場所を限定せずに、とにかく遺族が生きている間に遺族からDNAをできるだけ希望するならとっておくと。そして今、見つかっていない遺骨と照合するというようなことを推進するために、今、2つの記が書かれていますが、そこをやるためには例えばどういうことが私たちにできることですか。例えば、この間の参議院議員会館においての説明会の状況とか、厚生労働省の職員がそこに来ていたのかどうか、そしてどういう関心を持ったのかどうか。今、具志堅参考人は4つのポイントだけではなく、もっと拡大をすべきだと。それと高齢化している遺族の方のDNAを早く採取してほしいという2つをおっしゃっていますが、そのことを動かしていくために我々議会としてできること、そして参議院議員会館での集会も含めて御意見があればお伺いしたいと思います。

○具志堅隆松参考人 非常に勇気づけられる質疑ですが、私は今回の陳情が採択されて、厚生労働省に意見書が上がったら、今度は参議院の厚生労働委員会で取り上げていただくようなことを考えています。要するに、厚生労働委員会で沖縄からこういう意見書が上がってきているはずですよねと。それについては単に沖縄だけの声ではなく、国民全体の遺族の利益、権利とも合致するはずですので、国はこれをやるべきではないですかといった、要するに合理性があるかという意味で―私はあると思っていますので、それについては衆参両院の厚生労働委員会でもそのことを取り上げていただき、より実現に向けて国会の中でも声を上げてもらおうということを考えています。そういう意味では、皆さんの関連の国会議員の方にも同様に、厚生労働委員でなくても声を上げていただくようなことを考えて協力していただけないかとか、あるいは沖縄においても、これはこちらが努力しないといけないことなのかわかりませんが、普遍的なものにしていくような、そのような努力が必要なのかと。そういう意味ではマスコミにできるだけこちらからも発信するということも必要だろうと考えていますし、沖縄県の県政において、議会から県においても当事者意識を持って臨んでほしいという、そのようなアプローチができないかとか、私も衆参両院の厚生労働委員会にぜひこのことは日本の遺族全体にとって利益となることだと思うのでぜひ協力をお願いしますということで、これからその方向に動こうと思っています。

○比嘉京子委員 きょういただいた資料に書いてあります戦没者遺骨返還のあり方を考える国会院内集会がありますが、その中にあります参議院の厚生労働委員会を中心にということで理解をするところですが、今おっしゃることは、私たちが陳情を踏まえた意見書を国に出してほしいという意を酌み取るということでよろしいですか。県が出している去年の文書もなかなかどうなっているのか見えないところはありますが、七、八年―10年ぐらい前ですか、厚生労働省にも何回か行っておりますが、なかなか動きがないと思っている中で先ほどおっしゃったように遺品がそばにあるのかどうなのかということでなければDNA鑑定は認めないなどといったことがどんどんに粘り強い訴えでかわってきているということを非常に実感いたしますので、ぜひまた各委員の賛同も得ながら意見書の提出につなげていければと思います。

○具志堅隆松参考人 今おっしゃっていたことはよくわかります。厚生労働省に申し出て陳情を出しても、イエスとも、ノーともつかないような返事しか出てきません。しかし、そこは厚生労働省そのものというよりも、厚生労働委員の方たちにむしろ問題を共有していただいて、この委員会からも国に働きかけるといった手法が大事だということをやっているうちに気がついたので、そういうことも行っていますが、この動きの中で沖縄のDNA鑑定は今年度中となりますが、3月までにはどれぐらいの人数が確定したということが出ると思います。そのときには院内集会をもう一つ行って、厚生労働省にも来ていただいて、その報告もやっていただきながら、遺族の声も議員に反映させられるような、いわゆる議員と遺族との対話の場にもなって、なおかつ厚生労働省から今回のDNA鑑定の成果を報告していただくと。できるならば遺族からこの先どのようにしてほしいという声が直接議員に伝わるような、そういうものがつくれればということで次なる院内集会というのはそのようにできないかということも考えております。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。
 亀濱玲子委員。

○亀濱玲子委員 陳情第122号ですが、先ほども比嘉委員がおっしゃっていた国は歯以外からの自分のDNAの情報が抽出されない場合が多いということを県も踏襲しているわけですが、今のお返事からいいますと、私たちが国に意見書をもし出すとしたら、歯との差は35倍であるとか、そうではなく遺骨が保存されている状況によって抽出される可能性が違ってくるので、残されている全ての遺骨の保存状況のよいところから抽出するということですので、国には歯と限定せずにむしろその保存されている状況によって全ての部位―四肢骨からとらなければならないということを国に考え直してもらうといいますか、そのことを言わなければいけないのではないですか。

○具志堅隆松参考人 実は、国と話し合いをするときによくそういうところに行き着きます。例えば人間には220の骨がありますがそれを全部やるのですかとなりますと、そういうものは必要ないですよね。例えば手足の骨というのは四肢骨といいますか、これでも1人につき12本あります。4つですけれども、ここに2本、足にも2本ありまして12本になりますが、これが1人には部位は1つしかないものですから、同じ部位が2つ出てこればこれは2人だということで人数特定のときの根拠にしています。例えば右腕の尺骨が2本ありまして、ほかは出ていないと。それから、13本出てきていて右尺骨だけが2本あるとしたら、これは誰かの全然違う人の右尺骨がまざっているという考え方をしますが、例えば肋骨であるとか、背骨などはまざると正直難しいです。ですから、そういう意味で四肢骨、手足の骨だけをという捉え方をしています。肋骨を束になってたくさん持って来られても、これは正直に言って2人分に分けるという作業は難しいです。ところが手足の骨であればこれはできます。そういう意味で手足の骨も対象にしてほしいというような、それも例えば見ていたら70年間ずっと太陽にさらされて、チョークみたいになっているような遺骨ですとほとんどできません。そういう場合には諦めるということは十分あり得ると思いますが、土の中から掘り出されて頭蓋骨がない、歯がないとか―今、糸満市の束辺名というところでやっていまして、そこでも2体出ていますが、上半身は火炎放射器で焼かれているようで、顎が出てきていますが焼かれてしまっていて、これは無理だと。そうしますと下半身は割ときれいにそろっているので、それを対象にすればできるはずだと、なおかつ宮城と書かれた万年筆も出ています。ただ宮城だけではわかりませんが、そういうものも対象にしてほしいですし、できれば厚生労働委員会の方々にそういう現場に一度来ていただければ現実を目の当たりにして、やはり歯がないという状態があり得るのだと。そして、今おっしゃっていたように、科学的にこれは難しいという場合もあります。そういうことまでやりなさいとは言いません。1体出ているけれども歯がないと。そうすると、その人は対象にはならないのかと。そういうときには手足も使ってほしいと、そういう努力をしてほしいと思います。余りにも歯しかやりませんということで、600体あるうちの87体しか対象にならないというのは、犠牲者への差別だと思っています。

○亀濱玲子委員 先ほど、せっかく掘り出したのに火葬をするという話がありまして、それも置く場所がないのでという話をされていましたが、置く場所というのは今後確保するという話は進んでいますか。

○具志堅隆松参考人 恐らくやられていると思います。その後は何ら苦労しているような話は聞いていないので。ただ、何と言いますか、見つかった遺骨を火葬するというのは沖縄ではとまりましたが、南方ではまだやられています。南方で見つかった遺骨を持ってくる前に火葬してから持ってきて、それを厚生労働省は歯がある場合には歯をとりまして、歯がついていた残りの骨は分けてから火葬を行って返せるようにしていると言っていますが、しかし歯がない方は帰れないように火葬されてしまうということですので、これはぜひ遺骨を持ってきてそこでDNAがとれたら火葬を行って、小さい骨壺に入れて返せるような状態にするのでしたらまだわかります。DNA鑑定で帰る道を完全にゼロにしてしまうことが私は間違いだと思います。

○狩俣信子委員長 ほかに質疑はありませんか。

   (「質疑なし」と呼ぶ者あり)

○狩俣信子委員長 質疑なしと認めます。
 以上で、具志堅隆松参考人に対する質疑を終結いたします。
 この際、参考人に対し、委員会を代表して、一言お礼を申し上げます。
 本日はお忙しい中にもかかわらず、長時間にわたり貴重な御説明をいただき心から感謝いたします。
 本日拝聴いたしました内容等につきましては、今後の委員会審査に十分生かしてまいりたいと思います。
 具志堅隆松参考人、ありがとうございました。
 休憩いたします。

   (休憩中に、参考人等退室)

○狩俣信子委員長 再開いたします。
 以上で、本日の日程は全て終了いたしました。
 委員の皆さん、大変御苦労さまでした。
 本日の委員会は、これをもって散会いたします。






沖縄県議会委員会条例第27条第1項の規定によりここに署名する。

 委 員 長  狩 俣 信 子