平成20年(2008年) 第 1回 沖縄県議会(定例会)
第 7号 2月26日
比嘉 京子
 

 今、知事にお渡しした1945年から2004年までの、しかも訴えのあった、そういう氷山の一角ではありますけれども、A4用紙25ページにわたってつらつらとこの女性への性暴力について記述がされております。
 私は、その中から全部ではありませんけれども、ある程度はっきりしているものの年代別をちょっとお見せしたいと思います。私の総数は、あちらには300近くあるんですが、被害総数が258名、加害者が493名、10代未満が5名、10代が59名、20代が94名、30代が37名、40代が23名、50代が6名、その他が34名。
 こういうような記述の中で、ではどのように加害者が扱われたか。
 493名の加害者のうち処罰を受けた人数33名。この状況を皆さんはどうごらんになるんでしょうか。それを説明しているある記述がありますので、それをもって皆さんに説明の一端とさせていただきますが、これは「沖国大がアメリカに占領された日」というものの一部分の中に、宮城晴美さんがこの資料を紹介している記述でございます。多少省略しながら読んでみたいと思うのです。
 敗戦から半世紀たった1995年の9月に沖縄本島で3名による少女のレイプ事件が発生した。それを通して基地撤去に向けた動きを展開しようと事件の翌月、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」が結成されて、行動の一環として、米兵や米軍属によるレイプ事件の調査に着手したというところから始まっております。
 沖縄では、戦後米兵に襲われた女性は多いとか、追いかけられたことがあるなどの証言は多数あるが、具体的にどのような状況で、どれだけの人が被害に遭ったのかについての記録がほとんどなかった。被害に遭った女性のプライバシーを保護する必要があり、とりわけ小さな集落では被害者が特定されるため、地域全体で箝口令をしかざるを得なかったというケースがあります。したがって、調査の方法としては、目撃者の証言や個人史(文献)、それから地域史、新聞報道、米軍被災者の補償要求関連資料、警察資料などをデータソースにして300近くに上るリストアップをしてきた。これらの調査から、米軍が沖縄占領後、いかに卑劣きわまりない犯罪を繰り広げていたかということがよくわかる。
 以下、省略を交えながら読んでみたいと思います。
 日米の激しい戦闘がやみ、米軍に収容された沖縄住民を待ち受けていたのは米兵の来襲、とりわけ女性にとっては新たな戦争が始まった。食べ物を探し求め、収容所近くを歩いていた女性が複数の米兵にレイプされたり、乳児をおぶった19歳の女性が収容所内に拉致され、2年後に母子ともに白骨化した状態で見つかるなど、筆舌に尽くしがたい残虐な事件が続発をした。
 また、住民が運び込まれた野戦病院でも、看護婦として働く若い女性や重体の患者までが米兵の毒牙にかかった。中には付き添った父親の前で襲われた少女もいる。相手は武装兵である。妻や娘が襲われても男性たちは手の施しようがなかった。
 収容所から解放され、待望の郷里に帰っても住民に安住の地はなかった。畑仕事やまき拾いの最中に拉致・レイプされたり、家の中にも侵入された。地域の男性たちは自警団をつくって、米兵が集落に近づくと半鐘を鳴らして警戒した。女性たちも男装したり顔に炭を塗るなど、押し入れに隠れるなどの防衛策を講じたが、根本的な解決にはならなかった。
 米兵にとって女であれば年齢は関係なかった。1949年9月、中部のある地域で高熱を出した生後9カ月の女児が病院に運ばれてきた。女児は下腹部に傷を負っていた。それはレイプによる裂傷だった。
 当時の状況の特徴を見てみると、1、1945年・46年は食べ物探しや農作業中、井戸や川辺での洗濯中、それから銃、ナイフでおどして家族や知人らの目の前で、3人から6人の集団に襲われ、さらに基地内に連れ込まれて別の集団に輪姦され、子連れの女性は子供とともに拉致・レイプされ、その後絞殺される。被害者は子供から60代までという内容に分析される。さらに1950年に朝鮮戦争が始まるとなお拍車がかかった。
 さて、皆さんの記憶にもあるであろう1955年の石川の永山由美子さん。由美子ちゃん事件で大変震憾させて衝撃を与えた事件でありました。6歳の由美子さんですけれども、顔面が崩れて、そして草をしっかりとつかまえていたと言われています。犯人の米兵は一度死刑の判決を受けましたが、実際は本国に帰ってしまい処罰がどうなったか不明であります。
 このようなさんざんな状況の中で、私たちは今日この事件があるわけです。その重みを知事がどれほど認識しておられるのか。今の議場における質疑の内容を見ますと、実に疑わざるを得ません。
 そこで質問をいたします。
 まず、知事に、この後どのページでもよろしいですから1ページお読みいただきたいと思うのです。
 それから、このような多くの女性、子供の人権を侵し続けた歴史の一端に触れた御感想をお聞かせください。
 さて、昨日の玉城義和議員の質問で、東アジアの安全と少女の安全のどちらが大切かの問いに、選択できるようなものではないとお答えになりました。ということは、次にこのようなことが起こってもどちらもまた大事だと知事はおっしゃいますか。
 4番目に、2月12日の代表質問の、いわゆる一部の不心得者の云々について、現時点でも同じお考えですか。
 以上、再質問いたします。

 
20080107160050