予算特別委員会



 
開会の日時、場所

 平成25年3月22日(金曜日)
 午前10時5分開会
 第7委員会室



出席委員

 委員長 仲 村 未 央さん 

 副委員長 具志堅   透君  

 委  員 砂 川 利 勝君  桑 江 朝千夫君 

      座喜味 一 幸君  照 屋 守 之君 

      仲 田 弘 毅君  崎 山 嗣 幸君 

      新 里 米 吉君  赤 嶺   昇君 

      新 垣 清 涼君  玉 城 義 和君 

      吉 田 勝 廣君  前 島 明 男君 
 
      西 銘 純 恵さん 嘉 陽 宗 儀君 

      呉 屋   宏君  比 嘉 京 子さん

      嶺 井   光君
           


説明のため出席した者の職、氏名

 知 事    仲井眞 弘 多君 

 知事公室長  又 吉   進君
 


本日の委員会に付した事件

 1 甲第1号議案 平成25年度沖縄県一般会計予算

 2 審査日程の変更について



○仲村未央委員長 ただいまから予算特別委員会を開会いたします。
 甲第1号議案及び審査日程の変更についてを一括して議題といたします。
 本日の説明員として、知事の出席を求めております。
 まず初めに、甲第1号議案を議題とし、これより総括質疑を行います。
 なお、総括質疑につきましては、3月21日木曜日の予算特別委員会において全会一致で決定したとおり、1つ、質疑者、質疑事項及び質疑の順番は、お手元に配付の知事出席要求事項のとおりとします。2つ、各委員の知事に対する質疑は、答弁を含めないで1人10分とします。3つ、重複の質疑を避けることといたします。さよう御了承をお願いいたします。
 なお、質疑、答弁の順番といたしましては、まず初めに赤嶺昇委員の知事に対する質疑と答弁を行い、以後、順次各委員の知事に対する質疑と答弁を行うことといたします。
 それでは、まず初めに赤嶺昇委員から知事への質疑を行います。
 赤嶺昇委員。

○赤嶺昇委員 それでは、まず最初に4・28の式典について、マスコミ報道等でもかなり取り上げてられていて、国会での質問等でも出たのですが、まず最初に4・28に対する知事の歴史的認識をお聞かせください。

○仲井眞弘多知事  赤嶺委員の御質疑に答弁をいたします。日本がサンフランシスコ平和条約を締結し、敗戦で途絶えていた各国との外交関係が正常化し、国際社会に復帰した日であると認識しております。しかしながら、同条約第3条によって奄美、小笠原、沖縄は米軍の施政権下に置かれ、日本から切り離されました。このことは沖縄にとって不幸な歴史であり、決して忘れることのできないものと考えております。

○赤嶺昇委員  今、知事の見解を聞いたのですが、そういう中、今回、式典をするということで閣議決定されて、全都道府県知事に対して出席―いわゆる招待をすることになっているのですが、まずこの4・28の式典そのものについて、県民にとっては非常にいろいろな思いがあると思うのです。知事として、この4・28の式典そのものの開催の是非について、知事の本音をお聞かせいただけませんか。

○仲井眞弘多知事  是非についてということは、政府が御自分でお決めになることについて是である、非であるということは言えないことはありませんが、沖縄県の行政を預かる知事として、この点を是か非かという観点から―価値観でといいますか、申し上げることは私はいかがなものかと思います。ですから、これはそれぞれに言い分ないし理がそれなりにあるものでもあると思います。
 ただ、沖縄県にとっては、先ほど申し上げた答弁どおりの認識とか考えがありますから、恐らくほかの県は、沖縄県とは違う考えを皆お持ちだろうと思います。同様に、沖縄はほかの県とは違う考えと反応があるものと思っております。

○赤嶺昇委員  今の知事の見解は、私もそのとおりだと思うのです。仲井眞知事が知事になってもう2期目ということで、県民の心を一つにというキャッチフレーズで当選をされて、今、県民にとって非常にいろいろじくじたる思いがある中で、知事のいわゆる政治姿勢について、県民の心を一つにという言葉を考えるときに、今回の式典の参加等について知事はどのように判断されるのかお聞かせください。

○仲井眞弘多知事 県民の心を一つにということで、特に基地問題や防衛問題を中心としたことについて、沖縄県民はかなり同じような考えを持てるだろうという点はございます。テーマによってもいろいろな違いがあろうかと思います。
 ただ、4・28の式典については、1つは私の率直な思いは、県民の心を一つにというような切り口ではなくて唐突感がある。私が中学生のころの昭和27年の話―1952年の話でしたが、そのころのことは我々も割合に鮮明に覚えております。ですから、この唐突感と、今なぜこの主権の回復、そして国際社会への復帰ということで式典を開催するのかという御趣旨の説明は、この政府からというか、報道を通じて幾つか読んだり聞いたりはするのですが、どうもまだぴたっと胸に落ちないという点は否めないと思います。なぜなら、沖縄がそのときに切り離されたからに尽きるのですが、そしてその後の苦難を考えれば、謹んでお喜び申し上げますとは、なぜかぴたっと言えないというところから来ているのではないかと思います。

○赤嶺昇委員 率直な見解だったのではないかと思います。
 最後に、今、知事の歴史的認識、それから今の思いを伝えてもらったのですが、それとはまた別に知事としての政治的な立場がありますね。そういうことも今後、式典出席に際しては判断の一つになりますか。

○仲井眞弘多知事 立場というものは当然あり得ることで、皆様も政治家としてはお持ちだと思いますし、私も半分政治家でもあり、半分行政の実務はお預かりしておりますから、そのことからいろいろな判断の基準なり考え方が出てくるだろうことは、今否定しません。
 ただし、この式典に出席をというものは、実はまだ来ておりません。ですから、それが届いたときに―各県の知事は恐らく皆さんお出になると思いますが、考えが違う知事もおられますかね、わかりません。私は、もしそういうものが届いたときに、出るべきか出ざるべきかということは、まだ現在は決めておりませんということです。

○仲村未央委員長 以上で、赤嶺昇委員の質疑を終了いたします。
 玉城義和委員。

○玉城義和委員 知事、出席いただいてありがとうございました。沖縄県知事は次から次へと難問が起こって大変御心痛だと思いますが、頑張っていただきたいと思います。
 二、三、知事の御見解を賜りますが、去る3月19日の東京での記者団に対するコメントで、あそこで沖縄は切られ、主権回復どころか米軍の施政権下に放り込まれ、えらい苦労をさせられた。今の基地問題はみんなそこから来ており、61年たってもほとんど変わっていないと述べたと報道されております。
 この1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約、この第3条を中心に、沖縄県知事としてこの条約そのものをどのようにごらんになるか。その辺からまずお聞きしたいと思います。

○仲井眞弘多知事  先ほど赤嶺昇委員に申し上げたとおりで、沖縄県は入っていませんが、日本の人口で言えば約99%の日本国民を含む地域が主権を回復した、そして国際社会へ復帰したと言うことができる中身が第3条というか、サンフランシスコ平和条約の27の条項全体にわたって書かれていると思います。
 ただ、今の委員の御質疑の中で、第3条についてどうかというと、私はその第3条を逐一研究しておりませんから、今の御質疑に厳密にはお答えしかねると思いますが、可能な限り努力はしてみたいと思います。大きく言えば今のような考えでございます。

○玉城義和委員  この東京でのコメントは、私はなかなか当を得たコメントだと思っておりますし、このサンフランシスコ平和条約ができて、第5条、第6条という項目があって、安全、平和というところがありますが、そこで日米安全保障条約の伏線が張られたという意味では、知事がおっしゃるように61年たった今日と結びついているということでは、まさに的確なコメントだったと思います。
 次に、去る12日の衆議院予算委員会での安倍首相の発言ですが、こういうことを言っています。まず独立を回復しなければ、沖縄返還へ向けた米国との交渉をすることもできなかった。苦渋の判断だと思う。その判断が沖縄の復帰につながっていったということを言っています。
 すなわち、サンフランシスコ平和条約の発効が沖縄の本土復帰につながったという認識を示しているわけです。苦渋の選択であったということも言っています。この辺についての知事の御認識はどうでしょうか。

○仲井眞弘多知事  これは、いわば沖縄以外の地域の人々―安倍総理がたしか赤嶺議員の御質問にお答えになった部分だと思うのですが、いわゆる沖縄以外の地域ではあり得る考えだとは思います。ですから、そういう方向に沿って答弁を整理されたのだなと私は思いましたが、無論、沖縄でそれが理解できるか、沖縄で賛成する人が多いかどうかはまた別な話ですが、少し俗な言い方をすると、いわゆるヤマトではあり得る答弁だなという印象を受けました。

○玉城義和委員  これは沖縄との関係を聞かれて、要するに沖縄の切り捨てではないかということに対して、独立を回復しなければ米国との交渉もできなかった、そのことが沖縄の復帰につながったと言っているわけです。だから沖縄に特化した話で一般論ではないので、この理屈を沖縄県知事としてどのように受け取るかということです。

○仲井眞弘多知事 私が委員の今の御質疑を厳密に理解できたかどうかが少し気にはなるのですが、今申し上げたような、私の答弁にあるようなことがヤマトでは普通にあり得そうだと今申し上げました。
 ただ、今度は戦術といいますか、段階対応論として、まず99%であれ、ああいうことで沖縄以外の地域はほとんど主権を回復し、国際社会に復帰することを経てしか沖縄の返還はなかなかアプローチしたり、取り組むことは難しい。したがって段階説になっているわけですが、これをやって沖縄の返還につながったという考え方もあり得るとは思いますが、我々、私も歴史の専門家ではありませんが、そういうあたりについてはいろいろな昭和史の裏面とか、いろいろなことがささやかれております。結果として総理の答弁にあったようなことも一つの考え方であり、無論これは沖縄県民が、沖縄県祖国復帰協議会―復帰協ができ、1960年でしたか、いろいろな動きをしたことと相まって実現されたと思います。
 ただ、この段階説で沖縄復帰が実現したかということは、流れとしてそういうことになったのではないかという気もしますが、当時エクスプリシットにというか、明示的にそこを意識した政治的なステップだったかどうかはよくわかりません。

○玉城義和委員  私は、安倍総理は歴史認識がかなり違うだろうと思うのです。サンフランシスコ平和条約の検討は、アメリカで1947年ぐらいから始まるわけです。その中で、御承知のように天皇メッセージというものがありまして、これは1947年の9月、連合国軍最高司令官総司令部―GHQから米国国務省に宛てた手紙ですが、日本国天皇は、合衆国が沖縄及び琉球の他の諸島を軍事的に占領し続けることを望んでいるというメッセージが米国国務省に行っています。
 もう一つ、交渉に取り組んでいた駐日米国大使はこのような電報を打っています。沖縄返還、帰属問題について、沖縄や奄美では強い要求があるにもかかわらず、日本政府からは何の要求もないと。米国国務省に1947年に打っているのです。
 したがって、安倍総理の言う苦渋の決断であったとか、そのことが沖縄返還につながったということは、私は詭弁にすぎないと思うのです。朝鮮戦争とか中華人民共和国の誕生もあって、日本政府は沖縄を反共のとりでとして、軍事基地を置くことは最初から既定の方針なのです。そういう意味では、今おっしゃった知事の答弁とは少し違うわけで、日本政府は最初からそういうことを想定してかかっているということだと思うのです。そういう認識についてはいかがでしょうか。

○仲井眞弘多知事 今の天皇メッセージについて、米国側から出てきた、出てこないとかいろいろなことがあって、我々は、まだ政府が正式にきちんとしたものというか、かちっとその内容と存在そのものを政府としては処理していないと考えております。
 ただ、いろいろと公表されている外交文書を考えていくと、いろいろなことが推理、そしてストーリーがつくれます。ですから、これは僕らもたまに読む昭和史の裏とか、いろいろなことを考え、ないしは歴史の先生方の話を見ていくと、いろいろなことが予想もされますし、何となくそうかなと思えるものも否定はしません。
 そして、今の安倍総理の考え方とは別に、日本政府はちゃんと意図があって沖縄を切り離し、そのままの状態で置いておくという目的と意図があったに違いないということもよく言われていることではございますが、残念ながら私はそのあたりの分析の専門家ではないので、実は委員の御質疑にきちっと答弁ができにくい面があります。ですが、現在我々はこういう問題について、沖縄の中では、どんな説明を受けても、すとんと胸に落ちないということにとどめておいて、現政権が現政権として政策を遂行していく上での解釈として、これはこれで受けとめるしかないのではないかと考えております。

○玉城義和委員 極めて不十分な答弁だと思いますが、要するに安倍政権としてはこれぐらいの理屈しか立てられないということです。おっしゃるように、これはこれとしてすとんと落ちないということと同じことだと思います。
 自分たちで切り離しておいて、切り離したことが復帰につながったということはまさに日本語としても成り立ちませんし、知事のよくおっしゃるレトリック―修辞学というものはそういうことかもしれませんが、私は、これは全く意味不明だと思うのです。自分で切り離しておいて、そのことが復帰につながったなどと言うことは日本語としても通じませんし、論理としても全く通じないことを総理が言うということに、私は大変寂しい思いがいたします。
 次に進みますが、4月28日に政府主催で行われるこの式典について、3月12日の内閣官房長官の発表はこのようになっています。この式典は、平和条約の発効による我が国の完全な主権回復及び国際社会復帰60年の節目を記念し云々となっています。
 その式典そのものについて、沖縄県知事としてどう捉えるか、そのことをひとつ。

○仲井眞弘多知事  沖縄県と政府という行政組織上のといいますか、少しかたい表現をさせていただきますと、いろいろな捉まえ方もありますが、まず1つは、60年の節目と言っても60という数字の節目なのか、何かの節目なのか、少しわかりにくいのですが、突然この4・28の式典が出てきたという突然感、唐突感は否めないといいますか、少しあれという感じがあります。
 そしてこの位置づけ、この式典をする意味ないし目的をどのように説明されているのかという点は、少しいろいろ見たのですが、60年の節目、確かに60とか50とか、100という切りのよい数字は節目ではあるのですが、歴史的な意味や現在の政治状況を含めた意味というものが、政治的にどういう節目かも少しわかりにくいところはあります。くどいようですが、これもわかりにくい、すとんと胸に落ちにくいということでございます。

○玉城義和委員 まさにおっしゃるとおりで、これは50年か60年に意味があるのではなくて、安倍政権の登場に意味があるわけです。安倍政権という体質を持った政権―要するに、私から言わせれば多少復古調で、そういう体質を持った政権がこれに目をつけたということです。
 去る7日の当初の国会での話では、沖縄のことは全く触れていないのです。ところが12日とか、その後の国会では沖縄のことに触れ出している。私は、最初に言い出したときには、総理の頭に沖縄は全くなかったと思わざるを得ません。
 その7日の議事録を読んでいると、沖縄には全く触れていないわけで、朝日新聞などは、周囲からはもう少し沖縄に配慮すべきだった、最初の発言は少し失敗だったのではないかという声も出ていると書いております。
 そういう意味では、私はまさに唐突感というか、60年、50年に意味があるのではなくて、安倍政権という政権の登場によるものだと考えているわけですが、この中で非常に気になる内閣官房長官の談話は、我が国の完全な主権回復という言い方です。これはわざわざ完全をつけているわけです。
 この4・28が我が国の完全な主権回復であるとすれば、我々沖縄はどうなるのだろうということです。この完全な主権回復をした日本という国家と、落ちこぼれた、落ちた、そこから救えなかった沖縄はどういう関係になるのか。
 そうすると、ここの段階で沖縄が日本という国家から抜け落ちるわけです。この現実を沖縄県知事としてはどのようにお考えなのか、率直にお聞かせ願いたいと思います。

○仲井眞弘多知事  今、事務を担当しています部長と少し意見交換をしたら、まだこの内容、今の完全なの意味が実務的にもよく確認されておりませんから、済みませんが、これは私のほうで内閣官房長官殿に直接確認してみたいと思います。この字義をこのままとりますと、再び主権回復のところで沖縄に対する視点が抜け落ちているのではないかと思える表現という感じはしますが、これは脈絡をもう少し厳密に読ませてください。

○玉城義和委員  これは去る12日の12時に内閣官房長官がスポークスマンとして発表した文書です。県からもらいましたが、インターネットにも出ているものです。私は、これは非常に問題だと思います。完全な主権回復という言い方がどういうことを意味するのか。私は、これは沖縄にとって非常に深刻な事態を惹起するのではないかと考えております。
 これはひとつ、ぜひおっしゃるように、そういうことで内閣官房長官にじかに電話でもされてお確かめいただきたいと思います。
 それから、13日に知事が出された知事コメントについてですが、これは12日に政府発表があって、なぜすぐ13日に慌てて出されたのか、私は少し理解できないのですが、どうしてそんなに慌てられたのか。何か理由あるのですか。

○仲井眞弘多知事 別に慌てたわけでもありません。

○玉城義和委員  予算特別委員会で、知事の判断、出欠はどうするのですかと聞いたら、いや、全体が何もわかっていないからそんなことには答えられないという話です。それにしてはそのコメント、談話は早いのです。中身もわからないのに、翌日にすぐ知事談話、コメントが出るということは、私は非常に奇異な感じがするのですが、それは何か早くやったほうがよいとか、そういう何かがあるのですか。

○仲井眞弘多知事 くどいようですが、別にありません。

○玉城義和委員  それでは、中身について少し聞かせてもらいますが、4つのパラグラフからできていて、我が国の戦後の被占領状態に終止符が打たれたと理解しているという文章が最初のパラグラフにあるのです。我が国の戦後の被占領状態に終止符が打たれたと。県の理解では、この我が国の中に沖縄は入っているのでしょうか。

○仲井眞弘多知事  一般的に我が国と言うときは、無論47都道府県、沖縄まで入っております。ですから、この我が国の場合は一般的に申し上げている文章ではありますが、当時のあの沖縄が置いていかれた状態から言いますと、約99%の人が住んでいるこの地域について回復したというように考えております。

○玉城義和委員 沖縄は入っていないということですね。

○仲井眞弘多知事 この文章そのものを素直に読みますと、つまり一般的に、現在普通に使う場合は、当然沖縄は含まれております。当時のことは政府の発表の表現をおおよそ使わせていただいた内容になっておりますが、施政権の点から言えば、含まれていないと理解できると思います。

○玉城義和委員  ところが、非常におもしろいことに、政府発表の言葉の中には戦後の被占領状態という言葉はないのです。政府は完全な主権回復という言葉を使っている。ところが、沖縄県はそれを巧妙に被占領状態に置きかえているのです。完全な主権回復では余り問題が多過ぎるものだから、その言葉を使うと刺激的なので、被占領状態に置きかえているわけです。だから、この被占領状態が終わったという言葉は政府の発表には1行もないです。これは沖縄県の一つの考え方として出しているのだととらざるを得ないのです。この内閣官房長官の話は別にして、沖縄県が独特に使っている言葉だからどうなのですかと聞いているわけです。

○仲井眞弘多知事  今、この文章上のことでいろいろ御質疑を受けて、少しばたついているわけですが、政府には被占領状態という表現が使われていないのに、これは―つまり、県の考え方でしょうと言っておられると理解して申し上げれば、主権の回復とは、まさしく被占領状態から脱却したということですし、それをそうだとすれば、沖縄の被占領状態が継続するという点からいって、こういう文章になるということでございます。

○玉城義和委員 同義語だと考えて、次に進みます。
 最後のパラグラフですが、最後の結論部分で、4月28日が未来に向け希望に満ちた歴史をつくっていくための決意を新たにする日となっています。この上2段があって、県民は苦しんできたと言いながら、どうして最後に突然こういうことになるのでしょうか。
 つまり、この内閣官房長官の談話とこれが符合するのです。同じ文句を使われているのです。これはどうしてこういうことになっているのでしょうか。

○仲井眞弘多知事  確かに御指摘されれば、内閣官房長官殿の表現と似ているとは思いますが、一方、我々が1972年の5月15日に日本に復帰してから40年たっておりまして、一方で現実にいろいろな苦労、苦難があった、困難があったことも切り捨てられてというか、切り離されてあったことも事実ですから、その事実を踏まえながら、この4・28についての思いは、いろいろな人がさまざまな思いを持っておられることも確かです。
 そして、一方で我々は去年から新しい沖縄振興計画をつくり、沖縄21世紀ビジョンをつくり、次の20年に向かって進もうということを打ち出しております。
 ですから、確かにこのトーンから言えば少し飛んでいると考える方もおられるかもしれませんが、私はこの4・28を、あえて今これが持ち出されてきた以上、この4・28は―1960年のころでしたか、我々が大学生であったころの復帰協の皆さんが言っておられた屈辱の日という、ああいう感覚から既に50年たった今、私たちは同じことを最後の結論で結ぶべきかと言えば、やはりこれは新しいビジョンの実践、実現に向けて進んでいこうということを去年の4月からやり始めている今、同じトーンで引きずることはいかがなものかということが私の率直な気持ちです。
 ですから、こういう内容でしっかり頑張っていこうと。そしてまた当時、4月28日、1952年の沖縄タイムスか琉球新報かの社説を見ると、慶賀にたえないとか、いろいろな受けとめ方をされている部分もあります。
 一方で沖縄は残される、だから我々はこれからの苦難を思えば、私はしっかりと強い気持ちを持って頑張っていこうという御趣旨の表現がいろいろなものにあると思うのです。
 ですから、そういう決意を思い起こせば、これから私どもは40年前の日本復帰と、そして40年たった今と、たまたま今年度、新しい沖縄振興計画をつくって頑張っていこうということを決め、議会の御賛同もいただいたと思います。そういうことにも触れないと、やはりこういうものは一方に偏するという感じがいたします。あえて、むしろ力強く未来に向かって頑張ろうということを書いたわけでございます。

○玉城義和委員 未来に向けて頑張ることは異議ありません。それがなぜ4・28かということを聞いているわけであります。全く説明になっておりませんが、時間がありませんので。
 私は、この問題は、オスプレイも大変重要な問題ですが、沖縄と日本という関係をめぐる根源的な問題を提起したのだと思います。古くて新しい問題を―あの屈辱の日などというもう大体忘れかけていたものを、総理大臣がみずからまた火をつけたと思うのです。
 私どもは、沖縄にとって日本とは何か、日本という国家にとって沖縄とは何であって、将来何であるかという根源的な問いに直面していると思うのです。
 そういう意味では、かつて西銘知事が言ったように、沖縄の心とは、ヤマトゥンチュになりたくてなれない心と言ったことがありますが、時々日本人、時々ウチナーンチュ、ウチナーンチュ時々日本人という、要するに沖縄と日本をめぐる関係に、この問題、我々は直面しているわけです。
 そういう意味では、知事―出席をなさることはなかろうと思いますが、ぜひとも沖縄の人たちの気持ちに寄り添って、ここはひとつ断固として沖縄のアイデンティティーを守り抜くことで対応していただきたいということを希望申し上げて、終わらせてもらいます。

○仲村未央委員長 以上で、玉城義和委員の質疑を終わります。
 西銘純恵委員。

○西銘純恵委員  私は最初に、サンフランシスコ平和条約発効60年後を祝すという主権回復の4・28式典を行うという内閣官房長官の発表があったときに、知事が理解できない、沖縄は切り捨てられたと発言されたことが報道されました。これが本音ではないかと思うのですが、真意をお尋ねします。

○仲井眞弘多知事 まことに恐縮ですが、新聞とかマスコミの皆さんに聞かれたことを一つ一つ正確には覚えておりませんが、同様の趣旨のことは申し上げたと思います。

○西銘純恵委員 去る3月11日に内閣官房が閣議決定をすると言ったものは、先ほど話した60年を祝す、祝うという内容だったのです。その趣旨としては、我が国の独立国家としての主権回復及び国際社会復帰60年の節目を記念しということでやっていたのです。
 ところが、知事の発言や私たち沖縄県民がこんな屈辱の日をという声を上げる中で、きのう、案内状ということで報道された内容からは、祝い、祝すという内容が消えているのです。知事にも既にその内容は届いていると思うし、先ほど玉城義和委員から、知事コメントがすぐ翌日に素早く出されたと。そして最後の部分も、今度の内閣官房長官の中身と同じような、未来に向けた、希望に満ちた歴史をつくっていくとか、何か私は打ち合わせがあったのではないかと思うのですが、今度の閣議決定の文章では、主権回復、国際社会復帰を記念する式典の挙行について―これを皆さんに送付するということで、既に国会議員などには届いているようです。
 これは完全な主権回復ということで、最初は独立国家としての主権回復というものが完全な主権回復に変えられているのです。その独立国家と完全な主権回復という違いについて、知事の見解を伺います。

○仲井眞弘多知事 御質疑の完全な主権回復とか、独立でしたか、ここの違いについては我々もよくわかりません。ですから、これは改めて内閣官房長官殿に確認をしてみたいと思っております。
 それから、委員が初めにおっしゃった、政府と何か打ち合わせをしているのではないかと。これは打ち合わせするような内容では全くありません。ですから、これからは何かコメントを出すときにはゆっくり出しましょうか。つまり、こういうものはさっと、私の考えをまとめたことでありますから、そこら辺はひとつぜひ、余り思いをいたさないでください。

○西銘純恵委員  今、大事な部分なのです。独立国家となったのかどうか。主権回復ということは曖昧なのです。主権というのはどこをどう回復したかは幾らでも解釈できますから。でも、日本の国が独立国家かどうか、そこが大事なのです。最初は独立国家としての主権回復、これが変えられた。そしてお祝いをするという言葉がなくなったということは、やはり私たち沖縄県民の声が、今のような政府に対して沖縄県民は許さないよという声が届いている部分もあると私は思います。
 知事はコメントを出されました。本当に理解できないと言われた報道の翌日ですが、この中で、平和条約の発効によって我が国の戦後の被占領状態に終止符が打たれ、国際社会に復帰した記念の日であるとの考え方と理解していると。これは知事公室長にもお尋ねしたのですが、被占領状態とはどのような状態を言うのでしょうか。

○仲井眞弘多知事 太平洋戦争といいますか、いわゆる第二次世界大戦において日本が負けた。負けたことによって連合国の占領下に置かれた。そういう状態のことを被占領状態と申し上げているのですが、学問的に厳密な定義は、私はよく知りません。

○西銘純恵委員 知事はこの状況に終止符が打たれたということを言われています。4・28で終止符は打たれたのですか。

○仲井眞弘多知事 サンフランシスコ平和条約によってああいう内容のものができていますから、一般的には終止符が打たれたと言ってよいのではないかと思います。ただ、沖縄も小笠原も、奄美も残っていますよ。

○西銘純恵委員  私は、沖縄県の知事がこのように終止符を打たれたと理解していると言うものではないと思って聞いているのです。一般的には、どこかの知事がそういうことを発表することはあるかもしれないけれども、沖縄県がどうして、県民の代表の知事が終止符を打たれたと。沖縄の状況をもっとあからさまに、逆に出すべきではないかと思うのです。
 だから、この被占領状態に終止符が打たれたということは、本当に沖縄以外ということで明記すべきだったのではないですか。

○仲井眞弘多知事 恐縮ですが、この文章の立て方からすれば、一つ一つに一々注釈をつけて厳密な文章にはやっておりません。ですから、2以下がありますから、これでもって御判断いただける文章だと思うのです。

○西銘純恵委員 納得できないですね。大事な最初の部分でそういうことを言われている。
 そして、もう一つお尋ねしたいことは、知事公室長に、このサンフランシスコ平和条約が交わされる前に天皇メッセージが出されたと。それについて知りませんとおっしゃられたのですよ。私はここに―このような沖縄を、奄美を、小笠原諸島を切り捨てていく、そして千島もそうですよね。そこら辺の根源があると思っているのです。天皇メッセージについて、本当にその後も調べていないのですか。

○又吉知事公室長  天皇メッセージそのものを承知していないという趣旨で答弁した記憶はございませんで、天皇メッセージの中身は先ほど玉城義和委員からもありました。天皇が沖縄の被占領状態の継続を望むという内容だったと承知していますが、これがかなり後になって公文書館から発掘されたということでしょうが、我が国政府はまだこれを正本だと認めていないと承知しておりますし、これを基礎にして何か県が論を組み立てることは、これはそういうものではないというようなことを申し上げたつもりでございます。

○西銘純恵委員  天皇メッセージは、琉球諸島の米国による軍事占領の継続を望む、そしてこの占領は日本の主権を残したまま長期租借によるべき。もう1点あるのです。その手続は米国と日本の2国間条約によるべきということも含めて、その後のサンフランシスコ平和条約と同時に結ばれた日米安全保障条約、そして月を隔ててできた行政協定、この秘密協定だったと言われていますが、ここが戦後のサンフランシスコ平和条約に絡む米国の長期占領の、今の沖縄県の状況が生まれた根源だと思っているのです。
 沖縄県民が本当に4・28のあの第3条によって切り捨てられた、県民のこの苦難の歴史を知事はどのように捉えていらっしゃいますか。

○仲井眞弘多知事 その沖縄の苦難の歴史というものは、私のメッセージの第2の文節の中に書いてあるとおりでございます。

○西銘純恵委員  去る委員会審査で嘉陽宗儀委員もこれを紹介したのですが、沖縄占領米軍犯罪事件簿には戦直後からの米兵犯罪があるのです。それで琉球立法院は―4月28日から沖縄がサンフランシスコ平和条約で切り捨てられた後、ずっと苦難が続いているのですが、1956年の5月29日に人命尊重に関する決議というものを 行っているのです。少し紹介したいと思います。
 米軍の立ち入り禁止区域等に進入のゆえをもって軍人軍属等の発砲により殺傷された琉球人の数は、1953年この方18名の多きに及んでいる。特に悦子事件のごときは、射殺された者がか弱い一婦人であり、3児を抱え家計のためにスクラップ収集中の出来事であっただけに、琉球人の生命はすこぶる軽視されているかのような印象を世人に与えている。
 戦前、日本の軍国主義が絶頂の時代にあってさえも、軍人が民間人に発砲したという事例はまだ聞いたこともなかったのであったが、世界における自由、正義及び平和の基礎たる人権が尊重される時代において、毎年五、六名の琉球人が米軍の銃器によって殺傷されているということは悲しむべき一大不祥事であり、遺憾の意を表するものである。そして、再びかかる不祥事の起こらぬよう強く要請する。
 これは琉球立法院が決議を上げたものですが、立法院もやはりこのように当時の占領下の中で、県民が本当に大変な目に遭っていたということで、このようなことをやったということです。
 私がお尋ねしたいことは、なぜ今ごろになって4・28の式典を行うのかと、先ほど知事がおっしゃったのですが、私は今、安倍政権が去年の衆議院議員総選挙を前にして、憲法、国の形、公約を掲げたのです。この公約の中で、328というパラグラフで、建国記念の日、主権回復の日、竹島の日を祝う式典の開催、祝う式典ということで明確にしているのです。4月28日を主権回復の日として祝う式典を開催します。これに基づいて着々と今度出してきたということは、私は、知事はおわかりだと思うのです。選挙公約なのです。どうでしょうか。そこが大もとにあることは明確なのですが、これについて見解を伺います。

○仲井眞弘多知事  今、委員御指摘の点は、私はよく知りませんが、これは改めて再確認をさせていただきたいと思います。ただ、そうだとしても、今の4・28についての公約の性格は、少なくとも沖縄県ではなかなか理解しにくい、どんな説明を受けても理解がしにくいという面ははっきりあると思いますが、これはもう少し確認させてください。

○西銘純恵委員  沖縄県は本当に屈辱の日となったのですが、サンフランシスコ平和条約の第2条第c項では千島列島の放棄もするわけです。そして第3条で沖縄を切り捨てる。そして第6条の第a項ではこう書いています。日本国を他方として双方の間に締結された、もしくは締結される2国間もしくは多数国間の協定に基づく、またはその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐屯または駐留を妨げるものではない。この第6条の第a項によって日米安全保障条約が同日締結された。この歴史的事実を御存じですか。

○仲井眞弘多知事 今、委員がおっしゃるように第6条第a項で、そのまますとんと日米安全保障条約につながったかどうかは、私はよく知りません。ですが、このあたりから日米安全保障条約の話はいろいろと出てきた可能性があるという点は、そうではないかと推測はできます。

○西銘純恵委員  歴史的な事実をしっかり学んで、今なぜこのように4・28を祝うということをやっているのか。私は今、安倍内閣が憲法第96条をまず改悪して、憲法を変える国会をつくれるようにするという動きもあわせて、やはり戦後、私たち日本国民が新しい憲法のもとで、国民主権で憲法第9条、平和のもとに生きてきた。この憲法を大もとから変えて、安全保障体制を強化するという流れの中で、今の動きがあるということを厳しく指摘します。そして記念式典については、沖縄県の知事としては中止を求めるぐらい言ったらどうですか。

○仲井眞弘多知事 今現在、政府に対してこの中止を求めるという考えは持っておりません。ただ、内閣官房長官を通じて、もう少しこの考え方なり、いろいろお話を伺ってみたいとは思っております。

○仲村未央委員長 以上で、西銘純恵委員の質疑を終わります。
 以上で、仲井眞知事に対する総括質疑を終結いたします。
 説明員の皆さん、大変御苦労さまでした。
 どうぞ御退席ください。
 休憩いたします。

   (休憩中に、執行部退席)

○仲村未央委員長 再開いたします。
 次に、審査日程の変更についてを議題といたします。
 3月8日の委員会において決定した審査日程では、3月27日午前10時から採決を行うことになっておりますが、諸般の事情により審査日程を変更の上、午前9時30分の開会としたいと思いますが、これに御異議ありませんか。

   (「異議なし」と呼ぶ者あり)

○仲村未央委員長 御異議なしと認めます。
 よって、さよう決定いたしました。
 次回は 3月27日 水曜日 午前9時30分から委員会を開き、各議案の採決を行います。
 本日の委員会は、これをもって散会いたします。

   午前11時12分散会


知事等出席要求事項
 
 
1.赤嶺昇委員
 ○4・28 主権回復国際社会復帰を記念する式典に対する賛否について
 
2.玉城義和委員
 ○4・28 主権回復国際社会復帰を記念する式典に関する知事コメントについて(なぜ切り離された日が、未来に向けて決意を新たにする日にな
  るのか)
 
3.西銘純恵委員
 ○4・28 主権回復国際社会復帰を記念する式典に関する知事コメントについて(被占領状態に終止符が打たれたと理解しているとのコメント)

 
 
沖縄県議会委員会条例第27条第1項の規定によりここに署名する。