平成11年(1999年) 第 6回 沖縄県議会(定例会)
第 7号 10月15日
伊波 洋一
 

 幾つかの論点を明確にしながら反対の意見を述べます。
 まず、提案者が決議の冒頭で、「本県の米軍基地は、日米安全保障条約に基づき、我が国の安全及び極東アジアにおける平和と安全の維持に寄与している。」との認識については、強い怒りを持って反論したいのであります。
 なぜかというと、冒頭の表明は沖縄における米軍基地を永続的に存続させようということにしか受け取られないわけであります。県は、県案提示後七、八年かかると述べており、稲嶺知事が述べている15年の使用期限と合わせてあと四半世紀(25年)も沖縄での米軍駐留を継続させることになるからであります。
 そもそも提案者である与党の諸君は、1995年9月の少女の事件を契機に起こった怒濤のような県民の怒りの意味を知っていないのでしょうか。1995年10月21日の県民大会で各界から表明された意見表明をすべて忘れてしまったのでしょうか。戦後50年も続く理不尽な米軍支配の現実に対する県民の怒りを忘れてしまっていいのでしょうか。
 当時、県経営者協会長として登壇した稲嶺惠一現知事も、どのような発言をしたのか、もう忘れてしまったのでしょうか。そのとき稲嶺知事は、「復帰後も基地の集中による制約を受けて、本県の社会・経済は他県に比べ大幅に遅れている。戦後半世紀で基地の重圧から逃れたいとしているなかで、この事件はこの上ない怒りを覚える。本来、駐留地域の安全保障のために駐留している米軍が、逆に地域住民の安全を阻害している。」と述べたのではなかったでしょうか。
 駐留している沖縄において殺人的な爆音が放置され、墜落事故が多発し、殺人や婦女暴行事件など凶悪犯も多く、完全武装で民間地域を行軍するなど傍若無人に振る舞って県民を脅かす米軍基地や米軍を評価することから始まる決議に賛成などできるわけがないのであります。
 ところで、今議会で問題になった平和祈念資料館の展示改ざん問題で、4月6日の業者への指示の中に、基地に起因する事件・事故より、県内における事件・事故が多かったことも念頭に置くというのがありますが、そのもとになったのは最近よく議会で取り上げられる「沖縄の自己検証」という牧野副知事らが書いた本である可能性が高いわけであります。
 その本の中における牧野氏の発言として、「人口比率で言うと米軍人によっておこされた凶悪犯と県民がおこした凶悪犯の比率は県民の方が高い。だけどそのことに対する反省あるいは糾弾、あるいは治安を守るための運動とか住民総決起大会を開いて、県内の倫理や躾けに関する運動をおこすということは全くない。このことは正常ではないと思います。」というのがあります。95年10月21日の県民大会への批判を込めたものと思いますが、ここには事実誤認があります。
 なぜなら、1995年9月27日の米軍準機関紙スターズアンドストライプス紙は、沖縄県と米軍の過去6年間の統計資料により、米軍は人口比で4.2%だが、凶悪犯の逮捕者では約3倍の11.5%に及ぶと報道しております。
 内訳は、殺人、レイプ、強盗、放火でありますが、県内の人口は132万1602人で米軍関係者は5万5690人で、1989年から1994年までに凶悪犯で495人が逮捕され、うち57人がアメリカ人だったということであります。特に強盗が21.9%、レイプが15.2%と高いと報道しているのであります。
 さらに、米国内の報道ネットワークであるコックス・ニュースサービスが米軍のコンピューター記録を調べた結果、沖縄を含む日本の米軍基地での性犯罪件数は、米国各地の米軍基地と比べて2倍から4倍も多いことが明らかになっております。このことは、1995年10月9日のスターズアンドストライプス紙に報道されているのであります。
 例えば、1988年から1995年までの記録によると、日本では4万1008名の兵士に対し169名が性犯罪で告訴されましたが、サンディエゴ基地では9万3792人の兵員に対し102名が告訴されただけであります。
 ノーホーク基地では、11万3004名に対し90名しか告訴されていないのであります。兵員1000名当たりの性犯罪率は日本の基地で4.12人であるのに対し、サンディエゴで1.09人、ノーホークで0.80人にすぎないのであります。
 このような統計があるのに、県三役が指摘したように基地に起因する事件・事故より、県内における事件・事故が多かったことも念頭に置くべきだと提案された議員諸君も考えるのでしょうか。
 昨朝8時半から野党議員全員で9月定例会で最大の争点になった平和祈念資料館問題について、稲嶺知事に謝罪と三役責任の明確化を求めて申し入れてきましたが、稲嶺知事は一言の準備もせず臨み、複雑な事情があると釈明しただけであります。
 なぜこのことを申し上げるのかというと、その席には今回の問題の調査を担当しすべての懸念は杞憂と報告した比嘉参与がいたからでありますが、彼が地元紙で連載していた論評に米軍と住民の関係についてねじれた認識があるのを私は大変気にしております。この際、注意を喚起しておきたいと思います。
 彼が昨年の10月に起こったバイクに乗った女子高校生を米兵が運転する車でひき逃げされて死亡した事件で、問題は、なぜ彼女がその時間にそこを走っていたのかということだと指摘したことに私は大変驚いたのであります。
 このように、米軍や米兵の事件・事故の被害者に対して県政の中枢にいる人たちの視点が県民の視点から大きくずれていることに私は大きな危機感を持っております。
 大田前知事が95年10月21日の県民大会で、まず、行政の責任者として大切な幼い子供の人間としての尊厳を守ることができなかったことについて心からわびたいと述べたこととの大き過ぎる落差に唖然とせざるを得ないのであります。
 提案者は、今回の決議を3年前1996年7月16日の普天間飛行場の全面返還を促進し、基地機能強化につながる県内移設に反対する決議と矛盾のないものと説明していますが、今回の決議は米軍基地を容認するものであるばかりか積極的に評価するものであり、到底賛成できるものではありません。
 前回の決議は、「本県は、国土面積のわずか0.6%にすぎない狭隘な県土面積に全国の米軍専用施設の約75%が集中しており、これら米軍基地は、県土面積の約11%、特に、人口、産業が集中する本島においては、実に20%を占める異常な状況下にある。」そして、「普天間飛行場の県内移設は、新たな基地建設の強化につながるばかりでなく、基地の整理縮小に逆行するものであり、断じて容認できるものではない。」との認識を示して、「普天間飛行場の全面返還を促進するとともに、基地機能の強化につながる県内への移設をしないよう強く要請する。」としているのであります。
 そもそも米軍は沖縄戦を戦う前から沖縄を支配し、主要基地拠点として恒久基地を建設する計画を持っていたと考えられます。そのために沖縄を徹底的に破壊し、占領直後から基地建設が始まり、必要な土地を取り上げたのです。
 しかし、それでも足りず1952年から新たな土地接収が行われ、那覇市の銘苅や安謝、上之屋の住民に立ち退き命令が出て、翌53年には読谷村の渡具知、小禄・具志に立ち退き命令が、54年には宜野湾市の伊佐浜、55年には伊江島で強制的な土地取り上げが行われたのです。
 その10年後1966年には、ベトナム戦争遂行のために具志川の天願桟橋を強化するため昆布地区を新規接収しようとしたのであります。復帰直前の71年に米軍が断念するまで住民の闘いは続きました。
 1987年の国頭村では安波区民がハリアー基地建設を実力阻止しましたし、1989年には恩納村で米軍が都市型戦闘訓練施設の建設工事を強行しましたが、恩納村民の激しい反対運動で撤去されました。1995年の少女暴行事件では全県民的な怒りが全国にまで広がりました。基地の周辺では米軍絡みの事件・事故が起き続けてきたのが沖縄なのであります。
 10数万人の県民を殺した米軍は、その後も今日まで沖縄を我が物顔のように支配しているのではありませんか。それに手をかしてきたのが日本政府であります。沖縄県議会は、このようなことに手をかしてはならないと思うのであります。墜落事故が起こったり何か出来事があるときには基地をなくそうというのでは困ると思うのです。困難はあっても継続して基地をなくす努力を続けていかなければならないのであります。

 皆さん、沖縄県史の戦争記録を読んでください。早目に捕虜になった北谷砂辺から始まっていますが、捕虜になった若い女性たちを待っていたのは米兵による婦女暴行であったことがわかります。拉致されたまま帰ってこない女性も多く、殺されたものと思われています。その後、今日まで米軍に起因する事件・事故は繰り返されているのです。
 どうして私たちは米軍と決別しないのでしょうか。親や家族を殺され、土地を奪い、演習や事件・事故で被害を与え続ける米軍の駐留と決別できないのですか。もう冷戦も終わり米国内には閉鎖された基地がごろごろしています。民主主義の時代であります。沖縄県民がもう基地は要らないと主張すれば、基地を押しつけることはできない時代なのです。県内移設の候補地で地元の合意の得られるところはないと思うのであります。ならば、普天間基地について県内移設ではなく、県民全体の取り組みで沖縄からの撤去を行うべきであります。
 審議の過程でも明らかにされましたが、候補地に挙げられている地域で受け入れようという地域はまだないのであります。ないどころか、どの地域でも市町村長、議会、行政区のどれかのレベルで反対の声が上がっております。地域住民の合意が得られる見通しは全くないのであります。県内移設の反対の声は移設候補先だけではなく、普天間飛行場を抱える宜野湾市においても大きく上がっているのであります。
 まず、市内の西海岸地先への移設に反対する協議会が結成され、反対の声を上げています。さらにすべての県内移設に反対し、県外、国外への普天間基地撤去を求める「基地はいらない平和を求める宜野湾市民の会」も結成されています。
 なぜ宜野湾市民が県内移設に反対するのか。それは、普天間基地で飛び交う米軍ヘリや米軍機の危険性を一番よく知っているからであります。このような危険な飛行場は、県内のどこにも移設することができないのだと多くの人が思っているのであります。
 その証拠に、8月に宜野湾市議会で辛うじてSACO合意の促進を決議した市議会野党市議団から3名が市内移設を県に申し入れたとき、同調しなかった野党市議団からは市民投票が必要だという声も出たのであります。つまり、だれでもこの移設に対しては反対なのであります。
 このような基地を危険の分散という名のもとに移設すれば、移設先では米軍はしたい放題のことをやることは十分予想できるのであります。本土に移された実弾砲撃演習では、移設前の約束を守らず、その強度が何倍も強化されただけでなく、夜間砲撃演習が何日も実施されるようになっているのであります。米軍も信用できないし、日本政府も沖縄県民を守ろうとしていないことは私たちがよく知っていることであります。
 ジュゴンのすむ辺野古の海はすばらしい自然環境、観光資源であります。キャンプ・シュワブは早く返還させて、サンライズリゾート拠点として開発していくべきではないでしょうか。米軍基地と決別していくことこそ私たちに求められているのです。沖縄県民にもう基地は要らないのです。
 私は、95年10月21日の県民大会の女子高校生の発言が忘れられません。「もう、ヘリコプターはうんざりです。」という言葉で始まり、「私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください。」というあの女子高校生の声を忘れることはできません。
 若者の声をみんなで実現するために、どんな困難が待ち構えようとも取り組もうではありませんか。そのことが沖縄の未来をつくる私たち県議会議員の仕事なのであります。あの1995年10月21日の県民大会の前と後では、私たち沖縄県民は変わったのだということを確認しようではありませんか。もう基地には依存しないのだということ、基地のない平和な沖縄こそ沖縄県民の目指す未来だということを確認しようではありませんか。
 将来にまで汚点を残すことになる今回の決議に議員各位が反対していただくよう訴えて討論を終わりたいと思います。(傍聴席にて拍手する者多し)

 
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