平成11年(1999年) 第 6回 沖縄県議会(定例会)
第 3号 10月 1日
伊波 洋一
 

 知事、通告に従って質問をしていきますけれども、基本的に監修委員会の議事録、あるいはそれぞれ八重山を含めて事実に基づいて話をしておりますので、ひとつよろしくお願いします。
 「戦争の悲劇を二度と繰り返さないため新しい平和祈念資料館では沖縄戦の実相を展示し、その教訓を次の世代に継承するとともに、平和を求めるメッセージを沖縄から世界に発信していきたい」とこのように知事は2月の定例会で答えましたが、現在でも同様の見解ですか、お答えをお願いしたいと思います。
 知事、沖縄県史の中の9巻、10巻は証言になっております。(資料を掲示)
 この証言の中にたくさんのことが書かれております。非戦闘員の県民がガマなどを転々として戦場を3カ月もさまよい、日本軍は動けない病人を薬殺し、県民に集団自殺を強要し、沖縄県民をスパイ視して処刑するなど、他の戦争に見られないようなことがありました。これらのことは沖縄戦の実相の核心であると知事は考えますか、見解を求めます。
 (3)、沖縄戦では、なぜ10万人もの非戦闘員である県民が殺されていったのか、知事の見解を求めます。
 沖縄戦では、なぜ多くの県民が米軍によってガマの中で焼き殺されたり、毒ガスで殺されたり、爆弾を投げ込まれて殺されたのでしょうか、知事の見解を求めます。
 (5)、沖縄戦では多くの子供たちが死にました。何名の子供が沖縄戦で亡くなりましたか。そしてこのような多くの子供まで巻き込んだことについて知事の見解を求めます。
 (6)、沖縄での戦時体制は、県民の玉砕を前提にした戦争ではありませんでしたか。なぜこのような戦争が沖縄で行われたと考えますか、知事の見解を求めます。
 このような沖縄戦で日本軍は県民を守ったと言えるのでしょうか。むしろ日本軍は沖縄県民を守らなかったというのが沖縄戦の実相ではないでしょうか。
 新平和祈念資料館についてお伺いいたします。
 9月2日の沖縄タイムスは、県三役が平和祈念資料館の展示内容について旧日本軍の加害行為や残虐性を薄める見直し案を了承し、この見直し案をもとに展示業者に展示内容の見直しを指示したと報道しております。
 平和祈念資料館の展示内容の見直し変更が県三役の指示で行われたとする一連の報道をしてきた同紙は、9月27日の知事の調査報告について29日の社説で、展示内容見直しについては県三役の関与があり、監修委員会に諮られることなく県独自で進められたことが事実であると批判しております。この報道は事実か。知事を含む県三役は展示の見直しにどのように関与したのか、お答えください。
 ところで、ここに現資料館の久手堅資料に関する文書があります。これは3月まで平和祈念資料館に嘱託としていた久手堅さんに係ることですが、そのことは3月23日に知事に平和祈念資料館職員が説明した模様が書かれております。
 どう書かれているか。知事説明から帰ってきた職員と課長は、口々にとんでもないことになった、展示シナリオの全面書き直しだと頭を抱え込んでいた。どうしたんだと久手堅が聞くと、知事が、政府と対立するものの展示はいかがなものかと言っている、これまで県民の戦争体験に基づいて構成した展示の流れを変えなければならなくなった、このようなことを全員が異口同音に語ってくれたと、このように言っているわけであります。
 平和推進課の資料館関係職員が新資料館を説明した際に、知事は、政府と対立するものを展示するのはいかがなものかという趣旨の発言を、指示をしたのではありませんか。現在のすべての混乱の発端がこの3月23日の知事の指示にあるのではありませんか、知事の見解を求めたいと思います。
 県担当部局では、展示見直しは担当者の勉強会の資料として見え消し資料の公表を拒み、何事もなかったかのようにしようとしているが、県は工事業者に変更指示を出してガマの日本兵像を改ざんしたのだから、見え消し資料の公表を含めすべての事実関係を明らかにすべきだと思います。
 既にこの見え消し資料2枚が行われておりますが、出されておりますが、(資料を掲示)これはすべてではないはずであります。31日に資料が知事に説明が行われたときに、その後ろに幾つもの資料が入っていたはずであります。すべてを明らかにするべきであります。
 平和推進課が展示業者に変更を指示したのは、ガマの銃だけですか、それともほかにもあったのか、その後どうなっているのか、すべてを説明してもらいたいと思います。
 今後の平和祈念資料館の開館までの現監修委員会の委員の任期の継続と監修責任と権限の付与について知事の見解を伺いたいと思います。
 次に、沖縄戦体験者の映像記録の現状と編集、展示について説明をしていただきたいと思います。放置されているという報道が行われております。
 3番目に、戦争マラリアの実相についてお伺いをいたします。
 「もう1つの沖縄戦」とも言われる八重山の戦争マラリアについて、92年2月に県は調査報告書「戦時中の八重山地域におけるマラリア犠牲の実態」を報告しました。この報告書は、日本軍による八重山郡民のマラリア有病地への強制退去を明らかにし、国の「八重山地域マラリア慰藉事業」の根拠となった重要な報告書でありますが、稲嶺知事はどのように評価をしておりますか。
 次に、同報告書は、「疎開」、「避難」、「緊急避難」、「退去」等についての定義を明らかにしております。昭和20年4月から実施された波照間島、黒島等住民の西表島への移動と6月1日から命令された石垣、大浜地区住民の第3避難所への移動をどれに該当するとこの報告書は言っておりますか。
 この強制退去によるマラリア罹患者数、死亡者数は石垣町、大浜村、波照間島、それぞれ何名だったとしていますか。当時の各地区総人口数及びパーセンテージで示してください。
 同報告書は、当時波照間島に牛、馬800頭、豚400頭、ヤギ1700頭、鶏5000羽が飼育されていたことから、石垣島に駐屯する日本軍の食料確保のために波照間島住民の強制退去が行われていると思いますが、そのとおりですか。
 同報告書が指摘した沖縄戦を前に八重山の各離島に配置された離島残置工作員の役割は何でしたか。
 波照間国民学校の青年学校教員として赴任された山下軍曹が、1945年3月下旬には正体をあらわし、日本刀を抜剣してマラリア有病地の西表への退去に反対する者はこの日本刀で切るとした記録が沖縄県史にありますか。
 次に、八重山平和祈念館について伺います。
 公務において、後任の担当は通常は前任者が進めたことは尊重していくものであります。4月に着任した課長補佐は、開館間際になって八重山の戦争マラリアの歴史的事実を伝えるために制作された展示パネルやキャプション、展示物をどうして変更しなければならなかったのですか。
 平成11年2月22日の第3回監修委員会の記録によれば、担当の前課長補佐が「星になった子供達」の詩は、インパクトや象徴的なものを考え、波照間の学童慰霊碑の前で子供たちが歌う写真の上にのせることにしたと説明し、入り口の大パネル展示を決定し制作したにもかかわらず、開館直前に展示を取りやめた理由を説明していただきたいと思います。
 平成10年11月20日の第1回監修委員会議事録によれば、展示スペースのために窓をふさぐことが提案されましたが、当時前課長補佐が、上の窓はふさがず、カーテンなどを張って消防法等に抵触しないように方法を講じながら行うとこのように説明し、歴史年表については、学生の来館者に対して年表によって沖縄戦とマラリアの歴史を勉強してもらい、展示室に入るという筋立てを考えていると説明し、歴史年表の展示を確認をしております。
 しかしながら、4月になって消防法に抵触するからと偽ったのはなぜか。年表の歴史的事実を問題にしてとめたのではありませんか。
 平成11年4月の八重山平和祈念館展示内容説明資料によりますと、4月26日以後に新任の現課長補佐が修正した複数の見え消し資料、ここに4枚の見え消し資料があります。この見え消し資料のパネル13、14、15をすべて「強制退去」を「避難命令」に変更していますが、変更の理由を示していただきたい。なぜ強制退去という表現を展示計画書の原案どおり可決された監修委員会、これはこの中で4回も出ております。それから基本計画書の中にも「強制退去」が出ております。どうしてこの用語を外さなければならなかったのか、明確にお答えください。

 「戦時中の八重山地域におけるマラリア犠牲の実態」報告書では、マラリアの症状を「高熱地獄」と表現し、水をかける、あるいは芭蕉の幹をまくらに使って水が床下に流れるようにした、このような表現がありますが、これをすべて削除し、「マラリア患者の看病風景」に変えたのはなぜですか。
 見え消し資料の削除された言葉を考えますと、この削除は何らかの指示もしくは基準に基づく「言葉狩り」ではありませんでしたか。展示資料説明の変更の根拠は何ですか、明らかにしてください。
 監修委員会、専門委員会の専門家、学識経験者などが決定した展示内容を作成した写真説明の変更にかかわった職員は何名か。
 その職員の戦争マラリア及び沖縄戦について専門性、学識経験は監修委員会や専門委員会の決定を覆せるだけのものであるのか、明確にお答えください。
 知事の特命を受けて調査した比嘉政策参与の事情聴取に対し、八重山平和祈念館の展示制作を受託した業者が「八重山平和祈念館に関する事実関係の全容について」という報告書を参与に提出しております。
 しかし、これを参与は無視をしているわけでありますが、その中で9日に課長補佐が展示資料の見直しもあり得るとの打診を受けると。13日には、場合によっては基本コンセプト、基本理念そのものの見直しも必要であると言われたと。さらに4月28日には、歴史年表はマラリアだけに絞り、削除、単純化する方針と打診されたと、このように説明されております。事実でありますか。
 着任早々の課長補佐は、課長も病気休暇でいない中、だれの指示で4月9日、13日の早い時期に展示資料の見直し、基本コンセプト、基本理念そのものの見直しも必要であるということになったのか、説明をいただきたいと思います。
 八重山平和祈念館の展示改ざんは、戦時八重山マラリア問題の根幹をゆがめるものであり、長年にわたり戦争マラリア問題を取り組んできた多くの関係者の怒りを買っているばかりか、八重山地域マラリア慰藉事業の本質を見失わせ、多くの関係者の努力を無にするものになっています。県は、この責任をどのようにとるつもりですか。
 次に、県知事の調査について伺います。
 稲嶺知事は、比嘉政策参与に命じ、9月27日にその調査結果として指摘を受けていた事項について、そのような批判や懸念は必ずしも事実を反映したものではないとの結論に達したとの報告を了承し、公表しました。
 しかし、調査結果に対して多くの関係者から反発が沸き起こっているだけでなく、同問題を取り上げてきた琉球新報は社説で同報告と知事の対応に大きな失望を表明し、真相の究明を求めています。
 このような怒りと失望の声に知事はどのように対処し、真相を究明していくつもりですか。
 調査を担当した比嘉政策参与は報告記者会見で、監修委員会委員を知的緊張が足りないとか、あるいは最終的なチェックをしなかったのではないかという心証を得ていると批判し、責任を監修委員会に転嫁しています。
 県は、去る9月17日に石川副知事と金城局長が元監修委員や専門委員に対して県が変更を説明しなかったことを認め陳謝し、要請内容を検討すると約束したことを今回撤回する考えですか、知事の見解を求めたいと思います。
 あわせて、「知的緊張」というのと「最終的なチェック」について説明を願いたいと思います。
 受託業者が詳細な経過報告を政策参与にしておりますが、そのようなものは対象にならないからと事実調査を切り捨てております。比嘉参与はですね。
 今回の調査報告を行っている件で、八重山平和祈念館について調査をしたのか、だれを対象に調査をしたのか、報告書の全面公表と調査対象、見え消し資料を含めて関係資料の全面公開を求めたいと思います。
 知事の見解をお願いしたいと思います。
 最後に、代表質問との関連でお伺いをしますが、3月23日に知事に説明する前に、3月17日に監修委員会は全体会議をしております。議事録があります。
 その中で、当時の宮城会長代理は、本委員会は、実施計画を受けて具体的な制作に入る前の最終のまとめになりますので、忌憚のない御意見、御審議をよろしくお願いいたしますと言ってスタートをしております。つまりこれは何かというと監修委員会の最後の確認なんですね、制作に入る前に。
 しかし、それを持って知事に説明に行ったときに、知事が指示をしたからすべてが御破算になっているわけであります。
 つまり、金城局長はこれまで代表質問に対して、最後は監修委員会に諮るんだとこのように言っているわけですが、全く逆なんですね。諮ったものを知事はこれを拒否をした。
 それから八重山もそうであります。
 そのことについてすべて覆したわけであります。
 以上、答弁を聞いて再質問をしたいと思います。

 
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