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平成15年(2003年) 第 4回 沖縄県議会(定例会)
第 6号 10月 6日
平敷 昌一
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本日のアンカー役でございます。簡潔に、さわやかにまいりたいと思いますので、明快な御答弁をお願いしまして質問に入ります。
まず、ワークシェアリングについてであります。
今、県政が抱える大きな課題の一つに雇用失業の問題があります。全国的にも91年ごろから失業率は少しずつ上がって、98年ごろからは急速に上昇し、最近では全国平均で5%台の高い失業率となっております。
それに対し、本県では全国平均のおよそ2倍の8%台の高い水準で推移をしておりまして、県の努力にもかかわらずなかなか改善が見られないのが現状でございます。
これまでの雇用失業問題の対策は、どちらかといいますと公共事業への財政投資を中心とした雇用維持、雇用創出への助成金支出等のいわゆる財政依存型の一時しのぎの対策ではなかったかと思います。そのことは、構造的というか抜本的な問題解決にはならなかったわけで、ある識者によりますと、公共事業というのはドラッグ、麻薬と同じであると。苦しいときに飲めば楽になる。しかしその効果はすぐに消えてしまう。また苦しくなったら次のドラッグ、公共投資が欲しくなる。この繰り返しをしていると経済とか企業の体力が失われて自立しようという意識が失われてしまうという指摘がございます。確かに財政依存の対策は限界があると思います。
国民1人当たりおよそ600万円の借金をしている今の国家財政では、従来型の政策を続けることは困難であると思います。また、少子・高齢化が確実に進行している現状と、膨大な借金を抱えて破綻状態にある国家財政の状況等を考えますと、いかに国民の雇用不安を抑え収入不安を解消し、経済を再生させるかという課題を解決するのは並大抵のことではないと思います。そこで、今、論議が盛り上がっているのがワークシェアリングの導入であります。
そこで、私、今回はそのワークシェアリングの問題を取り上げてみたいと思います。
ワークシェアリング論議は、これまでにも過去2回あったようです。1回目は石油危機後の70年代後半、2回目は、円高不況の80年代後半の2回であります。
〔副議長退席、議長着席〕
今回のワークシェアリング論議は、これまでの2回の論議とは様相を異にしているようであります。すなわち、構造改革の政策が具体的に実施されない段階で雇用失業情勢が深刻化しており、もし構造改革が本格的に実施されてなおデフレスパイラルを脱することが不可能になれば、失業情勢はもっと悪化する可能性があること。それを単に市場経済の復活までの間の痛みと割り切ってそのまま放置するとなれば、余りにも無策ではないかとの認識から盛り上がったのが今回のワークシェアリング論議のようであります。
こうした状況を背景に、昨年3月29日に政府、経団連、連合のいわゆる政・労・使の検討会議を経てワークシェアリングに関する政・労・使合意がなされ、行政団体や企業においてそれぞれの体質に合ったさまざまなスタイルのワークシェアリングの論議と実践がなされております。
先進国のヨーロッパで行われているワークシェアリングの一般的なタイプは、フランス、ドイツ、イタリアが実施しております法律や団体交渉による全般的な労働時間短縮型が有名でありますが、ドイツ、フランスでは早期退職ならぬ退職前パート勤務制による若者の雇用増加をねらったタイプも試行されているようであります。また、ベルギーでは育児休業、介護休業の導入による仕事の分かち合いを目指したものなど多様な形態があると言われております。
要するに、働きたいが職につけない人が多い社会はやはり健全ではない。だれとだれが分かち合うのか、またどういう型の労働形態にすれば合意が得やすいかということであり、まさにこれまでの日本型雇用形態の変革であると思います。
そこで以下質問をいたします。
(1)、ワークシェアリングに関する政・労・使合意を受けて、県はこれから何をしようとしているのか、その方針があれば御説明ください。
(2)点目、現在、県内においてワークシェアリングを実施している企業、団体等があれば、その内容、また実施に向けて検討している企業、団体等があれば、それを紹介してください。
次、全国の多くの自治体でもワークシェアリングが検討され、あるいは実施されております。例えば、兵庫県では職員の時間外手当をカットし、その財源で若年層を170人ほど採用しているようです。その兵庫県をモデルに北海道、福岡県など10の県で実施を予定しているようですが、本県の場合どのような取り組みをしようとしているのか、御説明願いたいと思います。
(4)点目、鳥取県では基本給をカットして雇用創出型の正規職員をふやす思い切ったワークシェアリングを実施するほか、雇用機会創出支援基金を設けるなど積極的に取り組みがなされているようです。本県は常に全国平均の倍の失業率で、特に若年層の失業率が高いことからすれば、県が率先して実施すべきと考えますが、それについて県はどう考えておられるか、御答弁願います。
実は、私が県の人事課長をしているとき、もう20年ほど前になりますけれども、あるワークシェアリングをやろうと考えたことがあります。どういうことかといいますと、本県職員には──特に教職員に多いのですが──夫婦共働きしておられる組がたくさんおられます。そこで、夫婦の一方が管理職に昇任をする際には一方はやめていただく、もちろんその場合には退職手当等を加算するなどの優遇措置を講ずる。そういう人事措置によって新規採用職員枠がふえるわけであります。
なぜそのようなことを私が考えたかといいますと、私の周辺に両親とも公務員で、しかも管理職の地位にある家庭で、子供は立派な大学を卒業し公務員を志望しておりますが、なかなか就職できずに家で遊んで両親に扶養されている。こういう状態は決して健全な状態とは言えない。何とか新規採用の枠を広げられないものかと考えまして、夫婦県職員の場合、一方が管理職に昇任する際には一方はやめていただく、そういう人事制度にしたいと考えましてこれを公表いたしました。そうしましたら賛否両論紛糾いたしまして、特に職員団体の反対が強く、私の構想はつぶれてしまいました。そういう私の経験から次の質問をいたします。
(5)点目、県職員で──これは知事部局、教育委員会の任命権者ごとにお願いしたいんですが──夫婦共働きをしている人数は何人おられるか、またそのうち管理職は何名か。
次、他の県では夫婦の一方が校長、教頭へ昇任する際は一方はやめるという慣行が定着していると言われますが、その実態をどう掌握し、どう評価しておられるか、お答え願います。
次、もし夫婦の一方が管理職に昇任した場合、一方がやめるという人事慣行があれば、新規採用枠が毎年相当数ふえると思います。そうしたワークシェアリングの導入を検討する用意がありますか、ありませんか、お答え願います。
次は、慰霊塔の管理の問題です。
私は、最近「沖縄の島守」という本を読みました。これは田村洋三さんの著書で、中央公論新社が発行しておりますが、それによって島田知事以下県職員がいつ、どこで、どのような戦時下の行政を行っていたか、当時の県庁の移動経路、足跡、そして知事の最後の模様等が克明に記述されております。
島田叡知事は、沖縄戦のわずか2カ月前に大阪府内政部長から、なり手のない最後の沖縄県知事として敢然と赴任され、在任5カ月足らずの間に県民の疎開、食糧調達、戦場の避難誘導に県職員の先頭に立って戦時下の県行政に全力を挙げた末に、わずか43歳で戦没しておられます。
島田知事は、昭和20年1月31日に第27代沖縄県知事として荒涼とした焼け野原に残る沖縄県庁に赴任をしておられます。当初、県庁は城岳の壕を中心に行政が行われていたようですが、4月1日の米軍上陸後の4月4日に旧真和志村真地の県庁壕に県庁機能が移っております。そこで歴史に残る戦時下における県知事主催の市町村長・警察署長合同会議が開催され、南部地区17市町村長と4警察署長が出席をして開かれております。それが日米激戦下の4月27日のことであります。
1カ月余にわたるさまざまな戦時行政を行ってきた真地の県庁壕も戦況の悪化で放棄することになり、5月25日、県庁は東風平村志多伯の野戦重砲隊の壕に移動をいたします。しかし、その壕も危険になり、5月27日には旧兼城村の「秋風台の壕」に移動をされます。ここでも四、五日の滞在で、6月5日には県庁最後の壕となる旧真壁村伊敷の「轟の壕」に移ることになります。そのときには既に軍司令部は摩文仁に撤退を完了しております。「轟の壕」も6月9日には県庁、警察部は解散をいたします。機能停止をいたします。明治12年の沖縄県が設置して以来67年にわたる沖縄県の歴史はついに幕を閉じるわけであります。
島田知事は、県庁解散後の6月16日に軍司令官と最後の行動をとりたいといって壕を出られます。そして6月19日に牛島司令官と長参謀長を訪ね、最後の行動をともにさせてくださいと頼まれます。しかし牛島司令官は、知事は行政官であり戦闘員ではないから、ここで死ぬ必要はないと言われ、軍司令部壕から近い医務部壕、現在の「島守の塔」の背後にある壕だったようです。そこに入るように言われ、知事は医務部壕へお入りになります。それから3日後の6月23日には軍司令官と長参謀長は自決され、沖縄戦の組織的戦闘は終わります。
軍医務部壕で知事と一緒におられた生存者の大塚薬剤中尉の証言によりますと、島田知事が医務部壕を出られたのは、組織的戦闘が終わって3日後の6月26日だそうです。国頭の方へ突破するといって知事は出られたようです。その後の消息はぷつりと切れてしまい、内務省は大塚発言によって6月26日を知事死亡の日と認定、この日が命日になっているようです。
ところがその後、読売新聞、西日本新聞の取材調査で島田知事のその後の消息が判明をしているようです。東京都三鷹市で鮮魚店を営んでおられる山本初雄さんという方で、山本さんは当時、独立機関銃隊の分隊長だった方で、その証言によりますと、山本さんは国頭への脱出をねらって具志頭方面で敗残兵として生き延びておったようです。食糧探しをしているとき、海岸から50メートルぐらい上がった断崖の中腹に横穴壕があり、そこに左大腿部を負傷した男の人が1人横たわっていると。その人が山本さんに声をかけ、兵隊さん、私は知事です、黒砂糖があるから持っていらっしゃいと言われたそうです。なるほど飯ごうの中に3枚の黒糖が入っている。そのうち2枚だけをもらって壕を出、翌々日、食糧が入ったので山本さんは先日のお礼にと知事がおられた壕に入ってみると、あごの下にけん銃が落ちて耳の下から血が流れて自決をしておられた。山本さんの証言によりますと、知事の最後が判明しておりますが、その日はもう7月に入っていたと証言をしておられるようです。
私は、なぜ長々と島田知事の足跡を申し上げたかといいますと、私は昨年の6月議会で悲惨な沖縄戦の体験を歴史的教訓として風化させないためにも、慰霊塔・碑を戦争のあかしとして尊厳・保持していく必要があると。島田知事以下459柱が合祀されている「島守の塔」は、旧県庁職員の生存者が管理しておられるけれども、関係者の高齢化で今後の管理は困難になっている。戦没された459柱は、県の組織機能として職務を全うされて亡くなられたのです。ですから当然県が管理すべきではないかと質問をいたしました。
平和の礎、これはもう国籍を問わず、軍人・軍属を問わず全部沖縄県がその碑を設置して管理しておられます。そうであれば、沖縄県民のために頑張った沖縄県の組織機能の一部として最後まで職務を全うされたこの459柱の慰霊塔は、当然県が管理していいのではないかと私はそういうふうに思っています。私の質問に対し、関係者と協議をし検討したいとの答弁でございました。
それでは、どのような協議をし、検討の結果どうなったか、明確に御答弁願います。
以上です。
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20030406060100