前発言
平成18年(2006年) 第 4回 沖縄県議会(定例会)
第 7号 10月 4日
浦崎 唯昭
次発言
★ここをクリックすると、この日の発言が全て表示されます。★
グスーヨー、クタンデーネーミソーラニ。
ンジャルクングヮチヌ・ジューハチニチ、ワッター議会ンジ、ンナサーニチュクヤビタル「しまくとぅばの日」ヤイビータン。ワンニン、県立郷土劇場ンジ、2時カラ、グスージガアヤーニイチャビタンサイ。イッペー上等ヤイビータン。耳グスイ、ミークヮッチーヤイビータンサイ。知事ン、議長ン、ウチナーグチヒルミールクヮイヌクヮイチョウヌ宮里朝光クヮイチョウン参加シミソーチ、舞台ンジェ、ウドゥイ、三線、歌、芝居ンチ、イッペーハナヤカチョービータンサイ。アラタミティ、ウチナーヌシマクトゥバヌ、ニームトゥヌ深サ、ウヤユジュリヌティーカタヌミグトゥナムン、アラタミティカンジヤビタン。ウスラク、ンジャル500人ヌニンジュヌシンカン、アンドゥウムトーディウムトービーサイ。又、ウヌクトゥニツィーテー、ジーカビ、テレビ、マスコミガ全県カイ報道サビヤーニ、ウチナー、ハナリ、ミャーク、エーママディ、イッペームリアガッタンディヌクトゥヤイビーンサイ。
クヌクトゥヤレーカラ、ワッターン条例チュクタル責任ヌアイビーン。又、執行部トゥマジュンナヤーニ、ウヌ、ワッターティーカタヌニームトゥデージニサーニ、アンサーニ、ティフィヌ世ニナサビラナ。
皆さん、お疲れさんでございます。
去る9月18日、初めての「しまくとぅばの日」でございました。私も喜んで式典に参加をさせていただきました。まことに見事なすばらしい式典でございました。皆様と一緒につくりました条例を行政と一体となって、この「しまくとぅば」が根づくようにしていきたいと思っております。そのためには執行部と一緒になりまして、議会も責任を持って、「しまくとぅば」を普及するために頑張りながら、平和な世をつくってまいりましょう。
通告に従いまして一般質問を行います。
稲嶺知事の勇退についてでございます。
安倍新総理大臣が誕生いたしました。時あたかも我が稲嶺県知事は勇退の趣であります。
稲嶺知事におかれましては、2期8年間にわたり、文字どおり身を粉にして県勢発展のために尽力していただきました。これまでの数々の御苦労と多大なる御功績に改めて深甚なる敬意と心からの感謝を表するものであります。
この間における特に基地問題等に関しては、中央の論理及び官僚主導と沖縄県の主体性とのはざまで苦悶され、不退転の決意と背水の陣のもとでの必死の攻防と真剣勝負により、緊張感の連続であったろうと推察し、その労を衷心からねぎらうものであります。少々早いですが、本当に御苦労さまでございました。そして支えました牧野浩隆副知事、嘉数昇明副知事、新垣幸子出納長にも心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。
一方、過酷でハードな知事職でありますが、反面ではその職務を遂行する過程で、これぞ知事職だという知事冥利に尽きるという側面も多々あったのではないかと思います。
各分野において多くのリーダーが存在する中で、沖縄県唯一のトップリーダーが県知事であります。
思えば戦後60年の激動の時代背景のもとで、多くの知事が誕生いたしました。その一挙手一投足の総和が今日の沖縄県の礎となりました。まさに知事職は沖縄の羅針盤そのものであり、その責務の大きさと重大性は申すまでもありません。
振り返ってみますと、まず戦後の混乱期に県民の先頭に立たれたのが沖縄民政府初代知事の志喜屋孝信さんでありました。そして土地問題の解決に粉骨砕身の御努力をなされた琉球政府の比嘉秀平初代行政主席を初め、戦後沖縄保守政治の中にあって重厚感、存在感のあった当間重剛主席、そして松岡政保さん、大田政作さんの顔も浮かんでまいります。
また、本土復帰を果たし、新生沖縄県の誕生と民生の安定に尽力された屋良朝苗主席・初代県知事、任期途中、志半ばで病に倒れた平良幸市知事、そしてヤマトゥンチューになりたくてもなりきれないウチナーンチュの心との明言であり至言を残された西銘順治知事、基地問題で孤軍奮闘された大田昌秀知事がおられました。そして21世紀最初の知事として県民に圧倒的に支持・選択された稲嶺知事は、身を挺して新しい時代の県勢発展の方向に確実に道筋をつけていただきました。このたび、屋良知事以来の勇退を決断されたものです。
私は、この先人の歴代トップリーダーの方々の沖縄県ならではの数々の苦渋の決断等々に思いをいたすとき、この郷土沖縄の歴史的事実を忘れることなく、県政の最高指導者として過去を振り返り、現実も直視しながら行く末を見据えつつ、均衡ある県勢発展の先頭に立って貢献できる、このことこそが知事冥利であると考えます。
稲嶺知事が任期を全うされ、余力と期待を残しながらの勇退は、人間として男としての立派な晩節を感じるものであります。
私自身も稲嶺知事の矜持を感じながらの8年間でしたが、勇退を直前にしての知事のそこらあたりの心境の一端をお聞かせいただければありがたいと思います。
また、2カ月後に就任する新知事に対して、前任知事としてこれだけは心して継承してもらいたいということがあれば、ぜひその思いのほどをお聞かせください。
次に、乙第14号議案「沖縄県立奥武山総合運動場の設置及び管理に関する条例の一部を改正する条例」について伺います。
この条例は、奥武山野球場の廃止をするということでございます。
昭和35年、私も高校球児で白球にまみれた毎日でございましたけれども、高校2年生のときに奥武山野球場ができたとき、まさに県内は革命的な出来事として野球ファンは大変喜んだ次第でございます。そして46年間、この奥武山球場は数々の名勝負、ドラマを展開して、いよいよことしの11月に廃止をされるという条例になるわけでございます。一抹の寂しさとともに、新生那覇市営球場として移管されるということで期待もはらむわけでございますけれども、この廃止をされることにつきまして3点お聞かせをいただきたいと思います。
1番目に、「第2条第2項の表奥武山野球場の項を削る。」とのことでございます。議案を議会に提出する際にはそれなりの手続が必要だと思いますが、その経緯を詳しくお聞かせください。
2番目に、県立奥武山野球場が先ほど申し上げましたように、果たしてきた役割はまことに大なるものがあります。今や高校野球も甲子園に出るとまさに優勝候補、八重山商工高校もしかりでございました。野球メッカになったこの中で、奥武山の果たしてきた役割は大なるものがあるというのは先ほど来申しておりますけれども、その役割と実績について御見解をお願いいたします。
さて、その奥武山野球場がいよいよ閉まる中で、県としてもふさわしい行事を主体的にやるべきじゃないのかと幾度か申し上げてまいりましたけれども、その気配が見られません。やはり46年、昭和35年(1960年)の開会式のときに恐らくすばらしいセレモニーが行われたと思います。閉会するに際しましても、46年の歴史にふさわしい、野球メッカをつくったふさわしい行事をしてもらいたいということを質問いたします。
再質問させていただきます。
前発言
次発言
20060407090110