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平成13年(2001年) 第 2回 沖縄県議会(定例会)
第 8号 3月 2日
小渡 亨
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おはようございます。
それでは会議規則にのっとりまして一般質問を行います。
1番目、琉球の歴史について。
私は、歴史についての専門家でもなく研究者でもありませんが、琉球の歴史の中で大交易時代が終わり、島津氏が琉球に武力侵入した以降の歴史評価に大変疑問を抱いております。
1609年以降、島津氏の琉球支配についての明治時代の文学者あるいは歴史学者であった伊波普猷氏は、当時の琉球人は、水中に潜ってせっかくおいしい魚をのみ込んだと思ったら、直ちに引き揚げられ、すっかり吐き出される長良川のウと運命の類似者であったと述べております。薩摩により搾取され続けられた植民地であったという評価が現在の評価であります。教育委員会も同様な評価をしております。
昨年の暮れ、沖縄にとって大変名誉ですばらしいことがありました。それは首里城を初めグスク群、関連遺産群が人類共通の財産として世界遺産に登録されたことであります。大交易時代からつくってきた文化遺産群を植民地支配の状態の中では保持発展させることはできるはずがないというのが私の考えであります。
島津氏の琉球入りが侵略ならば、その結果をそのまま継承した明治政府による廃藩置県、これもまた日本政府による侵略となります。そうすると1609年から1945年の終戦までの336年間も我々琉球・沖縄は日本の侵略下にあったということに法的にはなります。昭和20年、現地日本軍の降伏により日本国から解放されたということになります。そんなばかなことはありません。
島津氏の琉球入りは基本的には侵略ではなく、その本質は武力による琉球の日本への民族統合であると考えるのが正しいと私は思います。そしてその関係は、かなり緩やかな一部自治権をも認めた支配であったと考えられます。
そこで質問です。
(1)点目、知事、私は琉球の歴史は再検証・再評価すべきであると述べてまいりましたが、知事の見解を賜りたいと思います。
(2)点目、教育長に質問します。
中国において明から清への交代は、1644年に女真族である順治帝が漢民族を破り北京を都としてから始まります。続く康煕帝、雍正帝、乾隆帝の3帝130年間が清国の全盛期と言われております。琉球国王が清の皇帝から冊封を受けたのは1663年で、清国が発足してわずか19年目であります。そして島津氏が琉球入りして54年後であります。当時の清国は軍事超大国であり、琉球国王としては最も近い冊封の関係から清の武力をかりて侵略者であった薩摩に戦いを挑むことも可能であったと考えられますが、そのような史実はありません。これについて教育長はどのように考えますか。
(3)点目、県教育委員会の出版物には1609年、島津氏の琉球入りを侵略としてとらえておりますが、琉球・沖縄におけるその侵略が終了したのはいつになりますか、答弁を求めます。
私は、琉球の歴史の評価についての矛盾点は今後機会あるごとに行っていきたいと思います。
2番目、治安出動の際における治安の維持に関する協定について。
防衛庁と国家公安委員会とは、治安出動の際における治安の維持に関する協定の全部を昨年12月4日に全面的に改正をしております。
その後、その細部協定の中では今まで明記されていなかった航空自衛隊の協力事項と連絡責任者に関する規定が追加され、通信に関する規定も整理をされ、平素からの情報交換等に関し密接に連携することが規定されました。さらに協定の第6条には、必要に応じ県警察本部は、現地自衛隊と現地の実情に合った現地協定を締結するものとあります。
質問です。
(1)点目、沖縄県における治安維持に関する自衛隊との現地協定の概要を説明してください。
(2)点目、このような緊急事態における対応は平素からの訓練が最も大切でありますが、13年度予算で幾ら予算を計上し、どのような訓練を予定しておりますか。
(3)点目、沖縄県における危機管理の責任は知事にあります。危機発生時の初動時に対応すべく知事公舎には特別な装置を施した部屋がありますが、その機能を確認したことはありますか。また訓練等で使用した実績があれば説明をしてください。
3番目、ここで我が党の代表質問との関連を入れます。
在沖米軍人の事件が起こるたびに県議会や市町村議会において、その行為を断じて許すことができない行為であり、地域住民はもとより県民に大きな不安と衝撃を与えたとし糾弾をし意見書等を決議しております。
私も議場において賛成をしている立場として、その行為そのものに抗議をすることは当然のことだと思います。しかし事件がその後法的にどのように処理され、容疑者がどのような刑に服したかどうか、断じて許しがたい行為として糾弾した割には議会において追跡調査することは全くありません。
そこで捜査権を持つ県警本部長へ質問します。
初めて海兵隊の兵力削減をうたった平成13年1月9日の女子高校生への強制わいせつ事件について容疑者の起訴、不起訴、罪の重さはどのようなものだったのか、それぞれ説明してください。
4番目、沖縄平和賞について。
ことしの2月15日の北京発共同電によりますと、中国外務省は、中国が非合法化した気功集団法輪功がことしのノーベル平和賞にノミネートされたことについて、「ノーベル平和賞を政治目的に利用することに断固反対する」というふうな声明を出しております。世界的に最も権威のあるノーベル平和賞でさえ、その運用は大変難しいということであります。そのあえて難しい課題に取り組まれた稲嶺知事の意気込みを今回質問する予定でありましたが、一昨日の玉城義和議員への答弁の中で知事の平和賞に対する思いの一端を拝聴しました。
知事の言う県民の平和を希求する気持ちは私にもわかります。しかし平和の求め方は大田前知事に代表されるほとんど化石となった非武装平和、そして日米安保を支持する武装平和と互いに絶対に相入れない意見に県民は二分されております。そのような中で私は、両方の意見が満足する平和賞は不可能だと思います。政争の具にされるだけであります。しかし与党議員でありますから、もうこれ以上言及しません。
知事、県民世論に耐えられるような平和賞になることを期待しております。
答弁は要りません。
5番目、普天間飛行場代替施設の15年使用期限について。
私は、知事を支える自民党所属の議員でありますが、現在、あえてちまたに広がり始めた声なき声を述べてみたいと思います。
SACOで合意をした普天間飛行場を移設するために稲嶺知事が3年前に誕生しました。普天間飛行場の撤去、国外移設を主張し、オール・オア・ナッシングの大田知事では政府との関係も冷え切ってしまい、経済的にも行き詰まってしまう。これではいけない、沖縄県がだめになってしまうということで県民は稲嶺知事を選択したと思います。
知事には普天間を動かす責務があります。普天間飛行場が危険であればあるほど一刻も早く移設すべきであります。しかし知事就任3年目に入った今でも全く動く気配は見えてきません。それは知事、15年使用期限を知事みずからが設定したからであります。
この15年使用期限問題にしても、最初は15年程度が望ましいでありました。これまでにない全く新しい基地提供の概念を、知事はこれでなければ県民は納得しないだろうとみずから考え、導入、主張したわけであります。当初はアバウトな15年程度でありました。そしてファジーでもありました。新鮮でもありました。軍事的に非常識であっても、これでもいいのかなと私も思いました。
しかし、去る12月定例議会での答弁を聞いて私は自分の耳を疑いました。15年使用期限問題が解決されなければ工事の着工もあり得ないというものであります。ファジーであった面が完全になくなってしまいました。これで知事は、みずからの努力ではもう越えることのできない高い高いハードルをみずから設定したと言っても過言ではありません。これではオール・オア・ナッシングの大田前知事とどこが違うのかなと、私にはわからなくなりました。15年使用期限がベストであり、これを選択し主張し続けるならば知事の言う危険な普天間飛行場は動きません。
政府は、閣議により沖縄県の主張は重く受けとめると言ったきり、この3年間全く変化はありません。膠着状態に陥り、危険状態のまま普天間飛行場は使用され続けることになります。この責任は第一義的に知事にあります。
知事、ベストな選択肢を追求しつつも、ベターな選択肢を模索していくぎりぎりのタイムリミットに今来ていると私は考えます。
15年使用期限問題の解決と一刻も早く危険である普天間飛行場を動かすことをてんびんにかければ、何をさておいても動かすことが先であると私は思います。このままでいくと、知事は沖縄の基地問題の最大の目玉であった普天間飛行場の移設について、結果的に4年間何もしなかった、何もできなかったという不名誉な、不幸な結果しか残らないと私は思います。5年から7年以内に完成しなければならないSACO合意の5年目は、もう来月の4月になっております。
知事の見解を求めます。
1回目終わります。
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