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平成13年(2001年) 第 2回 沖縄県議会(定例会)
第 8号 3月 2日
教育長(翁長良盛)
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小渡議員の御質問にお答えいたします。
まず、侵略者と言われている島津氏に世界最強の軍事力を誇っていた清国とともに撃退しなかったのはなぜかという御質問にお答えいたします。
御案内のとおり、豊臣秀吉が1592年から朝鮮に侵略を行ったとき明国は、隣国で、しかも冊封関係にあった朝鮮に援軍を派遣し豊臣軍は朝鮮での抵抗に遭い敗退したと言われております。
これに対しまして1609年、薩摩は同じ冊封体制下の琉球に侵略し、琉球側は明国の後ろ盾も期待はしていましたが、そのころの明国は、外圧による国力の衰退など国内外の政治情勢から実質的に支援できる状況にはなかったと言われているようであります。薩摩の侵攻後、琉球は薩摩藩を介して日本の幕藩体制の中に組み込まれていったとされます。
ここで大切なことは、1609年以降も琉球の王国体制は温存されたままであり、中国皇帝との関係も存続したため従来の王国としての琉球、冊封体制下の琉球という性格は残ったということではないかと思います。
近年の歴史研究の成果を見ますと、幕藩体制の中の異国と表現されておりますように、琉球は日本に対しては従属的な支配・被支配の関係とはなりましたが、中国に対しては冊封・進貢の関係は継続したと言われています。中国側としては、外交上あえて琉球に援軍を派遣して日本と争う必要性はなかったというのが多くの研究者の理解のようであります。また琉球といたしましても王国の体制が存続している以上、あえて清国の援助を求める必要もなかったのではないかというのが大方の意見のようであります。
次に、島津氏の侵略が終了したのはいつかという御質問にお答えいたします。
1609年の薩摩侵攻につきましては、研究者の間でさまざまな見解があると聞いております。
これまでの研究成果について伺いますと、1609年の薩摩侵攻は、幕藩体制の日本国家とは異なる独立した琉球王国を侵略・征服した事件であるということで「侵略」、「侵入」と表記することが一般的ということであります。副読本の中でも「琉球侵略」と表記しましたのもあくまでも一般的な見解に沿った形での表記と理解しております。
薩摩の侵攻は1609年3月から始まり、同年4月に琉球を征服後、尚寧王はとらわれの身となったようであります。その後、徳川家康は島津家久に琉球を与え、島津氏は琉球の検地を終えました。1611年9月には島津氏が琉球の統治方針を決定し、尚寧王らが誓約文の「起請文」を書かされ、「掟十五カ条」が申し渡されました。これにより尚寧王が帰国したのは同年10月とされます。
以上のように、薩摩侵攻は一連の事件過程がありますことから、事件の終了は1611年10月ごろと考えるのが大方の意見ではないかと思われます。
以上でございます。
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