平成13年(2001年) 第 2回 沖縄県議会(定例会)
第 7号 3月 1日
上原 吉二
 

 知事を初め親川知事公室長、糸数観光リゾート局長、銘苅土木建築部長におかれましては、誠意ある御答弁大変ありがとうございました。
 翁長教育長におかれましては、教えていただく立場からあと一、二点お聞かせをさせていただきたいと思います。
 ウチナーンチュは、古くからイチャリバチョーデー、ユイマールの心を伝統的にはぐくむ歴史を持つすばらしい県民だと自負いたしております。そうでしょう、知事。
 知事もうなずいております。
 時あたかも国際社会、世界の動きは民族、思想・信条を乗り越えて世界は一つ、まさにボーダーレスの時代を迎えております。昨年は、世界の先進国の首脳が一堂に集う沖縄サミットがここ沖縄の地で開催されました。そのことは県民に大きな夢と希望を与えた一大イベントであったと思います。
 また、沖縄の先人たちが築いた首里城、今帰仁城、勝連城、座喜味城、中城城等の名城と識名園、園比屋武御嶽石門、玉陵、斎場御嶽、合わせて9カ所が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録され、人類共通の宝として世界的に認知されたことは、沖縄県民に大きな誇りと自信を持たせたものでありました。
 私は、今、静かに立ちどまって沖縄のいにしえに思いをいたし、先人たちの偉業に心からの敬意を表したいと思います。
 私たちウチナーンチュのたどってきた道は、独立国だった琉球王国時代のウチナー世から明治12年の琉球処分によって大和世となり、太平洋戦争となり戦世となり、戦後のアメリカ世となり、祖国復帰によって再び大和世となって今日に至っております。これはすべて県民自治の及ばない時代の流れの中で起きた歴史の事実であり、沖縄県がたどってきた歩みでもあります。今こそ沖縄の歴史を検証し、過去の沖縄の歴史の事実も知ることによって沖縄から日本、世界を見ることは極めて大切なことであると思います。そうでしょう、皆さん。
 そこで歴史的な史実、1187年に即位をした琉球国王舜天王は、源為朝と大里按司の妹の間に生まれた子であると羽地朝秀の書いた「中山世鑑」に引き継がれてきたのが史実とされております。
 沖縄本島には平家は上陸していないとも言われておりますが、しかし本島の各地に「平良」の名字や平家の武将であった「羽地」の名字、地名、河川名等、すなわちそういったところを取り上げてみますと、屋我地の「平良田」とか大宜味村の「平良川」、そして東村の「平良川」、「平良区」、具志川市の「平良川」、そして読谷山の「平良」、首里の「平良」、豊見城の「平良」、そして西原の「平良」、八重山、そして宮古の「平良」、含めてそういったところからいたしますと、私はあの700数十年前に「おもろさうし」にも大和、山城の軍勢が運天港に入ってきた事実は知られているわけでございまして、「おもろさうし」にも
   勢理客ののろの  あけしののろの
   雨くれ 降ろちへ  鎧 濡らちへ
   運天 着けて  小港 着けて
   嘉津宇嶽 下がる  雨くれ 降ろちへ
   鎧 濡らちへ  大和の軍 山城の軍
ということで歌って、羽地内海、つまり旧羽地村の平良村に城を築き上げまして、浦添、首里へ上がっていったというのがしるされているわけでございます。
 壇ノ浦の戦いで破れて二位尼に抱かれて入水をしたと言われておりますが、あの安徳天皇が果たして、幼くして1人を見殺しにされてそのまま平家の武将羽地が大勢の武将を引き連れて沖縄にやってくるのがあの当時の縦割り社会からすると、私は不可能に近かったということを思っているわけでございます。
 そうしますと、源為朝が伝説というふうになりますと、私はあの平家の武将の一大中心人物が安徳天皇であることが最も妥当性があるように思われるわけでありまして、そういったところを羽地朝秀たる賢明な侍がなぜこれを源為朝説を正史に取り上げたかということが一つの大きな問題であるわけでございます。
 これは、一つに言われるのは、島津藩ではその始祖忠久は源家を継いだ親戚筋であったということ、そして首里の貴族階級が平家の色に染まっていたことからもわかりますように、おのれを含めた琉球王族は南走平家であることを隠すためであっただろうということでございます。 
 そしてもう一つには、日支両属の間で生きていかねばならぬ苦しさということでありまして、安徳天皇が沖縄に来て舜天王にかわったという説が私は妥当じゃないかということを皆さんに訴えたいわけであります。
 そうしますと、この沖縄の琉球の歴史が日本の歴史まで変えるということになると大変な発見になるわけでございまして、今沖縄県の観光においても糸数観光リゾート局長も大変順調と言っておりましたけれども、青い海、青い空、白い砂浜ということについてはおのずと限界が出てくるわけでございますが、そういったような学問的な歴史・文化的なところから加味していきますと、両方合わせますとそれこそ700万あるいは1000万台の大台というのも夢じゃないんじゃないかということを私は皆さんに言いたいわけでございまして、そういった問題を唱えているわけでございます。
 そういったようなことを私は真境名安興さんあるいは奥里将建、そして元豊見城村議長であられた長嶺正徳さんの著書を参考にいたしまして、一部比嘉勝秀自由民主党副会長の協力を得まして総編さんをしてまいったわけでございます。
 そういったことからいたしまして、ぜひこんなすばらしいことであれば知事も先頭に立って県の条例制定を早目にしていただきたいということでございます。
 あわせまして、最後になりますけれども、翁長教育長にこの羽地朝秀の按司を務めたところはどこだったのか、そしてなし得た事業をちょっと詳しくお聞きをいたしまして私の一般質問を終わります。

 
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